森の妖精
岩化け、木化けという言葉もあるように、よく釣る人ほど
ポイントや魚に対して気配を消し、周囲の自然に溶け込んでいる。
そのせいなのか、伊藤の渓流釣りに同行すると魚だけでなく、
山の野生動物を間近に見ることが結構ある。
4月下旬のこと。
大きめの淵でキャストを続けていた伊藤がピタリと動きを止めた。
左手の手の平をこちらに向けて「動くなよ」というサイン。
さては大きなイワナでも追ってきたのかと思ったけれど、
どうも様子が違う。伊藤の視線は水面ではなく、淵の右側の
切り立った岩盤に向いているのだった。
「あの岩陰から出てくるよ」
訳も分からず、そーっとカメラを構える。
現れたのは、まだ黄色の冬毛をまとったテンだった。
テンは夜行性なので、昼間は岩穴や木のホラに入って休んでいる
ことが多く、目に触れる機会は少ない。俊敏で木登りも上手く、
森の中を身軽に動き回りながら、昆虫やカエル、木の実のほか、
小鳥や野ウサギなどの小動物を捕らえて食べている。
そんなテンが伊藤のすぐ視線の先で、やたらとリラックスした
様子でエサを物色している。
「警戒心の強い動物なのに、珍しいなぁ」
見てるとモフモフとして可愛らしい。そしてやはり厳しい
自然を生きる野生動物の気高い美しさを備えている。
最後にカメラ目線を撮りたくて伊藤が声を掛けると、くるっと
こちらに顔を向けて5秒ほど静止…。
あとは斜面をするすると駆け上がり、森の奥へ。
幸運な出会いに感謝。
今年も野山を駆ける季節がやって来た。
この日はまだまだ水温が低く、魚も眠っている感じの所が
多かったけれど、川によって季節の進度は違う。
ここがダメならあそことテンポ良く動いていく。
rod:Expert Custom EXC510ULX lure:Bowie 50S[YMG]
芽吹いたばかりの残雪の渓では十分に良型と呼べるヤマメが
伊藤の手に収まったのだった。
「でも、今日の主役はやっぱりテンだな」
あー楽しかった!という笑みを浮かべて竿をたたんだ。