イトウクラフト

TO KNOW FROM FIELD

FROM FIELD

FIELDISM
Published on 2013/10/22

イトウガイドサービス
2012夏 後編
本ヤマメとアブの朝の巻

2012年8月
文=丹律章

(あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。)



 テントを出ると、空気は少しひんやりとしていた。

 さすが雫石だ。8月半ばでも、早朝の空気には冷涼感がある。

 イトウガイドサービス本部前では、伊藤秀輝さんと吉川勝利課長が僕の起きるのを待っていた。

「おはようございます」

 2人が声を揃えて言う。声が見事に揃っている。いつも思うが、あんたらはマナカナか! そうじゃなければタッチか!

「今日は近くの川から釣りを始めますので、ここで準備を済ませてから行きましょう」

 また声が揃う。まさか、常日頃から声を揃える練習でもしているのだろうか。

 この日は、「ガイド&BBQパックサービス」の2日目だった。前日の午後早くにガイドサービス本部に着き、夜にかけて山の幸や川の幸を堪能し、明けてこの日が釣りというスケジュールだ。

 前夜は、大量のビールと、ジンギスカン、南部短角牛のステーキ、カジカ、ウナギなどを大量に飲み食いし、精神も胃袋も満たされた状態で、僕は林の中に張られたテントで熟睡した。そして、体力も気力も充実した状態で、この朝を迎えたのだった。


 静かな朝だ。空は薄いもやに覆われている。しかしこのもやは太陽が出るとすぐに霧散し、ほどなくセミも鳴きはじめ、あっという間に夏の騒がしい朝に変貌するはずだ。

 僕は、ザックの中からウェーダーとシューズを取り出し、異変に気付く。あれ? このひもちょっとやばいかな。

「どうしました?」吉川課長が言う。

「いや、シューズのひもが切れそうなんです。でも、大丈夫じゃないかな、今日1日くらい……」

「それはいけませんねえ。山の奥で切れたら、まともに歩けませんよ。それが急斜面の途中で、なおかつ、歩きにくいガレ場で、さらに突然50m先にクマが出てきたらどうします?」

「そんな偶然が重なることはないとは思うけれど、何かいい方法がありますか?」

「ございます。少々お待ちください」

 レンタルシューズ、1日3,000円というところだろうか。まあ、それも仕方ないか。吉川課長が言うように、釣りの途中でひもが切れたら最悪だ。

「ちょうど最後の1点が残っていました。現在、日本中の渓流アングラーに大人気で売り切れ続出の、イトウガイドサービス靴ひもでございます」

 手渡された靴ひもを凝視する。そこには、「イトウガイドサービス製 ウェーディングシューズ用・靴ひもBORON」とあった。値段は8,500円。

「あの、これ普通の靴ひもですよね」僕は一応、吉川課長に尋ねてみる。

「いえ、パッケージをよくご覧ください。ウェーディングシューズ用と書いてあるじゃないですか。専用の靴ひもです」

「そうなんですか?」

「そうです。東北の渓流の水温に合わせて柔軟性を設定し、耐水性も高めてあります。耐摩耗性はBORONマテリアルを使用することで、通常の靴ひもの3倍の強度を実現しております」

 ボロン? 本当かねえ。僕には靴屋さんで買ってきた靴ひものパッケージに、パソコンで適当に印刷した紙をペタッと貼り付けた代物にしか見えない。だが、ワイルドターキーのボトルに安物のウイスキーを入れて客に出すぼったくりバーのような強引さもまた、イトウガイドサービスの特徴だ。

 おとなしくその高価な靴ひも(ちょっと安いウェーディングシューズなら1足買えておつりがくる!)を購入し、ひもを取り換えていると、伊藤さんが横に来て言った。

「丹様、カーディナルのスプールのチューニングはお済みですか?」

「スプール? チューニング? いえ、知りませんけど」

「当ガイドサービスでは、カーディナルをお使いの方に対して、スプールのチューニングサービスも行っております。具体的にはスプールエッジのテーパー加工で、これにより飛距離のアップとライントラブルの減少が望めます」

「まじですか! それお願いしたいんですけど、すぐ……は無理ですよねえ」

「いえ、すぐにできますよ。料金は15,000円になります」

 僕はすぐにチューニングを頼んだ。伊藤さんは工房の扉を開け、旋盤にスプールをセットし、スイッチを入れたかと思うと数分でスプールの加工を終えた。

 加工料金15,000円。この料金は妥当か否か。非常に難しい問題だ。

 カーディナル3が発売された当時の定価は18,000円だったという。それに比べればスプールの加工が15,000円というのは馬鹿げた数字だ。

 しかし、ガイドの基本料金10万円に比べると妥当な料金かもしれない。さらに、靴ひもの8,500円に比べるとずいぶん安いような気もする。この辺が、イトウガイドサービスの困ったところだ。金銭感覚がマヒして、スプールの加工料金15,000円や靴ひも8,500円が普通に思えてくるのだ。しかし、それを気にしていてはこのガイドサービスを受けることはできない。

 そうなのだ。イトウガイドサービスとの付き合い方は、2つしかない。いつもの金銭感覚を捨てて高額な出費を受け入れる、観念する。もしくはガイドを頼まない、いっさい近寄らない。どちらかだ。

 なにはともあれ、僕のスプールチューンは終了した。さあ準備万端。ロッドにリールをセットしてウェーダーを履いたら、出発である。

 ランボルギーニの12気筒エンジンを搭載したレンジローバーが林道を進み、釣り場へ到着した。


「渇水しているんです。ヤマメは間違いなくいますが、どれだけミノーへ反応するか、それはやってみないと分かりません」

 伊藤さんはそう言って、僕を最初のポイントに案内した。

 流れの幅は2mほど。しかし、その半分は対岸から垂れ下がるボサに覆われていて、空いている水面は1mしかない。しかも流芯は対岸に寄っているので、魚は間違いなくやぶの中に隠れている。できるだけ魚との距離が近いラインをトレースするには、どれだけボサぎりぎりにキャストできるかが勝負になる。

 1投目、ビビってルアーは目標の2m手前に落ちた。2投目、キャストが右に寄ってしまったので途中で回収。3投目、どんぴしゃの位置にルアーが落ちる。トゥイッチングを開始すると、右のボサの中から黒い影がルアーを追い、食った。

 チェイスした影は見えたのだが、アワセが遅れてしまった。魚は水面で暴れて、フックが外れた。遅れたためにフッキングが十分ではなかったのだ。


「アワセが0.3秒ほど遅かったですね」

「魚は見えたんですけど、体が反応するまでにタイムラグがありますからねえ」

「その0.3秒が大事な0.3秒なんです。そのラグを短縮することができれば、釣果は飛躍的に伸びるんですが」

「……たとえばですね。その0.3秒を何とかする薬とか無いんでしょうか。2,000円くらいなら払いますけど」

 伊藤さんは、僕の言葉を無視して次のポイントへ向かった。

ルアーをひっかけた時には、ガイドが取りに行く。客はロッドを保持して鼻くそでもほじっていればいい


 歩いていると、体にまとわりつく虫が気になり始めた。太陽が上がって、アブが出てきたのだ。この時期の渓流釣りの悩みのひとつはこれだ。しかし僕は久しぶりの渓流釣りだったので忘れていて、何たることか半袖シャツを着てきていた。あたふたしているうちに、アブはどんどん増えてくる。

 僕は、持参の虫よけを全身に大量にスプレーした(持参せずにガイドに頼むと、1秒あたり100円の料金が取られるのだ。持参すればいくらスプレーしても500円の出費で済む)。すると、心なしか減ったような気がしたが、それでも根性のある奴は襲ってくる。

「こんなものもございますが」

 いつの間にか吉川課長が僕の後ろに立っていて、布きれを手に持っていた。

「アームカバーでございます。虫よけにもなりますし、日焼け止めにもなります。丹様の場合、そろそろ肌の老化も進んでおられると思いますので、むやみに日焼けなさらない方がよろしいかと。シミや皮膚病の原因にもなりますし」

 老化とか余計なことはいい! 僕はアームカバーを借りた。1時間1000円だという。
腕は覆うことができたが、手の甲や顔はその限りではない。


「アブ1匹あたり500円になりますが、いかがいたしましょう」

 吉川課長がまたもや背後にいた。手にはハエたたきが握られている。

「それ、エキスパートカスタムのハエたたきですか? 去年ガイドをお願いした時も持ってましたよね」


「いえ、これはあの時のモデルではありません。現在3代目のプロトで、EXC180ULです。昨年の段階では3フィート1インチのロングロッドモデルをテストしていたのですが、ロングロッドでは守備範囲は広いものの、シズクイシクマアブやナンブマダラアブなど動きの速いアブには追従することが困難でした。そこで、シャフトを思い切って短くし、なおかつさらに高弾性のカーボンマテリアルを使用、ボロンの含有量も増加させたことで、トリッキーなアブの飛行にもショートストロークの振りで対応が可能になりました」

「では、僕の釣りの邪魔にならないよう、アブどもをやっつけちゃってください」

「承知しました」と言うやいなや、吉川課長はアブを撃退していく。バックハンドで1匹、振り下ろしながら1匹、アンダーハンドでさらに1匹。

 最近、吉川課長が釣りをしている場面を見ることはないが、アブを叩き落とす腕前は、去年に比べて格段に上達しているようだ。

「アブは私に任せて、丹様は釣りに専念なさってください」

「ところで課長、そのハエたたき、どう見ても100円ショップで売っているもののように見えるんですけど」

「丹様の目は節穴でございますか? これはエキスパートカスタムのシャフトに、わざと安っぽいブルーのペイントを施したスペシャルモデルでございます」

「はあ、そうなんですか」

「昨年の時点では40,000円の価格設定を考えておりましたが、ハエたたきに40,000円はどう考えても高すぎだろうということになりまして、38,000円でご提供できる見込みです」

「それでも十分に高いですけど」

「確実なアブの撃退をお望みなら、100円ショップのハエたたきでは役不足。このハエたたきならアラスカのアブでもカムチャッカのアブでも撃退可能かと存じます」

 何はともあれ、吉川課長のアブ退治のおかげで、釣りに集中できそうだ。


 目の前に大きな淵が現れた。

 早速キャストしようとすると、「ちょっとお待ちください」と伊藤さんが言う。「先ほどのヤマメのルアーへの反応を見たところ、今日はいつもに増してヤマメの警戒心が高くなっているようです。ですので、できるだけタイトに、ライナーでオーバーハングの奥へ入れるようにお願いします」

 はあ。できるだけやってみますけど。

「それと、ミノーは何をお使いでしょうか」

 ミノーは僕のフェイバリット、蝦夷ファーストですけど。それが何か。

「そうですか。ファーストもいいミノーなんですが……」そう言って、伊藤さんがベストのポケットをゴソゴソ探り始めた。

「ご要望のボウイでございます。先日最終プロトが完成いたしまして、これは昨夜仕上がった中の1本でございます。こちらの方がスレたヤマメを攻略するにはよりベターかと存じます」

「うわあ、嬉しいですね」。以前に電話でボウイを使わせてくれと頼んだときは、発売前ということもあって断られたのだが、なんとか都合をつけてくれたようだ。

「ありがとうございます。すいませんねえ」

「はい。ガイドサービスの常連の丹様の要望ということで、工場の方に特別に要求しまして、今日の釣りになんとか間に合った次第です。ですので、今回は定価の3倍の価格でお分けできるかと思っております」

「3倍! それは……えーとですね……あの……もう少し安くなりませんか?」

「はあ? 高いですか?」

「ええ……まあ……。ボウイは3,000円ちょっとすると思うので、3倍ならざっと10,000円ですよね……ミノー1個に」

「……それでは特別に2倍ということでいかがでしょう」

「よし買った!」

 というわけで、僕は最新作のボウイを手に入れた。3倍から2倍にディスカウントしてくれたように思えて3秒ほど感謝したが、よく考えれば結局定価の倍。高い買い物である。だが、これで魚が釣れるなら問題ない。

 そして、第1投目。初めてのミノーにラインのリリースタイミングが狂い、まさかのテンプラキャスト。ミノーは遥か頭上の木の枝を直撃した。やばい! ロッドをあおってもルアーは外れない。定価の倍で買ったミノーがあわや30秒で森の藻屑に……どうしよう。

 吉川課長が、180ULを振り回してアブを撃退しながら、ルアーが引っ掛かった木を見上げる。

「これは困りましたね。ボウイの手持ち在庫はございません。あれが今日お譲りできる最後のボウイなのですが」

 何とか取れませんかね。

「どうでしょう……」

 その時だった。下流からガラガラと河原を何かが移動する音が聞こえた。クマか? いや、エンジン音もする。振り返ると、そこにはパワーショベルが近づいてきていた。運転しているのは伊藤さんだ。

「これを使って、ルアーの回収をしましょう」

 いやいや、あの、ですね。それはありがたいんですけど、パワーショベルの使用料金が僕は気になるわけでして……。10万円とか言われるとちょっと困るんですが。

「ご安心ください。ルアー回収はガイドの仕事。パワーショベルは、ボウイの料金に含まれております」

 ルアーの代金に、重機の使用量が含まれているというのがよく分からないが、とりあえず大事なミノーはどうにかなりそうだ。


 ルアーを回収して次へ進む。目の前に絶好のポイントが現れた。水深は50~70センチくらい、左側から木の枝が垂れ下がっていて、川底にはちょっと大きな石も沈んでいる。

 ボウイをラインに結びなおして、念のため、後方にあるトロにキャストしてみる。また頭上の木の枝に引っ掛けるわけにはいかない。ボウイは、ファーストよりちょっと重量があるからか、思ったより初速が出て、きれいに飛んでいく。何投か試投を繰り返した後、僕は出来るだけ対岸寄りの、流芯に近い筋に狙いを定めてミノーを投げた。

 1投でヤマメが食った。


 グリングリンと暴れて水面に水しぶきが上がる。フッキングは申し分なかったらしく、今度はバラさずにランディングできた。尺がらみのサイズだ。

 ネットに入れて感動。胸ビレに鮮やかなオレンジ色をまとった、きれいなヤマメだ。おそらくは、この川で世代交代を続けてきた、本ヤマメだろう。


「さすがですねえ」

 2人が声を揃えて言う。もう、マナカナはいい!

「いやいや、渇水でシビアなこの時期に、このサイズのヤマメを誘い出すとは、素晴らしい」

「いや、まあ、そういわれると照れるなあ」

「やはり小さい体に秘めた実力があるんですねえ」

「ええ、まあ。釣りは身長じゃないですからねえ」

「キビキビした動きが効果的なのでしょう」

「まあ、僕のトゥイッチングもなかなかのもんでしょ」

「ヒラ打ちアクションがこれまでのミノーより凄いので、この泳ぎにヤマメもイチコロなんでしょう」

「泳ぎ? ああそうか。素晴らしい、実力がある、というのは僕のことではなく、ボウイのことだったんですね」

「いい魚ですねえ」また、2人が声を揃える。

「尺ってとこですね。ちょうど30センチくらいかな」

「いや、残念ながら尺には足りませんね。目算で29.5㎝です」伊藤さんが言う。

「じゃあまあ、四捨五入して尺ってことで」

「いえ、29.5は29.5。29.5センチは30センチではありません」

「ならさ、メジャーあててみてくださいよ。もしかしたら、30センチあるかもしれないじゃん」

 吉川課長がベストからメジャーを出す。ピッタリ29.5センチ。僕はメジャーを受け取り、自分で魚にあててみる。どう図っても29.5センチだった。どういう具合に何度測りなおしても、それは30センチには届かなかった。


「えーと、ものは相談なんですが、ほら、その5ミリは何とかなりませんか。たとえば、3,000円くらい払えば、尺と認めてくれるとか」

「丹様。当イトウガイドサービスでは、魚のサイズをごまかすことはありません」。伊藤さんがきっぱりと言い切る。「それだけは譲れません」。それが彼らのやり方なのだろう。

 靴屋で300円で買ってきた靴ひもに、8,500円の値段を貼り付けることはあっても、20秒の加工に15,000円の料金を徴収しても、ルアーを定価の倍で売りつけることはあっても、魚のサイズはごまかさない。それがイトウガイドサービスの矜持なのだった。

 山を下りて、湧水で冷やしておいたスイカを川につかりながら食べる。空を見上げると、ちぎれ雲がゆっくりと流れていた。トンボが飛んでいる。まだ暑いが、雫石の秋はもうすぐその辺まで来ているらしい。


 この日の釣りも終わりに近づいていた。今回もいい釣りだった。いいヤマメも釣った。

 魚のサイズはごまかさない。そう伊藤さんは言った。

 スイカの料金の50,000円はさすがに高すぎると、僕は思った。

TACKLE DATA

ROD Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
REEL Cardinal 3/ABU
LINE Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
LURE BOWIE50/ITO.CRAFT
LANDING NET North Buck/ITO.CRAFT

ANGLER


丹 律章 Nobuaki Tan


ライター

1966年岩手県生まれ、神奈川県在住。フリーランスライター。「ルアーフリーク」「トラウティスト」の編集を経て、1999年フリーに。トラウトやソルトのルアー、フライ雑誌の記事を多く手掛ける。伊藤秀輝とは「ルアーフリーク」の編集時代に知り合い、25年以上の付き合いになる。