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FROM FIELD TOP>丹律章 Nobuaki Tan
PROFILE
たんのぶあき。神奈川県在住のフリーランスライター。「ルアーフリーク」「トラウティスト」の編集を経て、1999年フリーに。トラウトやソルトのルアー雑誌の記事を多く手掛ける。伊藤秀輝とはルアーフリークの編集時代に知り合った。 川も海も幅広くこなすが釣りのウデは中の下。 1966年、岩手県生まれ。

 

「イトウガイドサービス2016夏 後編」 丹律章 
ゴールドラッシュの川の巻

文=丹律章

rod:Proto model/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
main line:Cast Away PE 0.6/SUNLINE
lure:Bowie 50S, Emishi 50S 1st/ITO.CRAFT
heart:どんな出来事にも動じない平常心



■一攫千金の川

伊藤「今向かっている川は、ちゃんと別の名前があるんですが、この辺の人は黄金川(こがねがわ)と呼ぶんです。昔から砂金がとれる川として有名で、中尊寺の金色堂に使われている金の8割が黄金川の流域でとれた金だといわれています」
 そうなんですか。教科書にはそんなこと書いていなかった気がしますが。
伊藤「定説としては、三陸海岸のいくつかの金山が、平泉の金文化を支えたといわれていますが、それは当時の鎌倉幕府、源頼朝を欺くための方便で、雫石にある金山の存在は、長い間ひた隠しにされていたらしいんです」
 金は今も採れるんですか。
伊藤「埼玉に住むユーザーで、前田君(注:前田章一さん。伊藤とも個人的な付き合いがある。当サイトで伊藤が前田さんを案内した記事を掲載している)っていう人がいて、5年くらい前に、彼がガイドサービスを使ってくれてね、その時黄金川に案内したんだけど、でかい金のかたまりを拾ったんです」
 でかいってどれくらい?
伊藤「ハンドボールくらいあったかな。それを売ったお金で、フェラーリを買ったらしいですよ」
 ホントですか?
伊藤「フェラーリだけじゃなく、今は腕に金色のロレックスを巻いて、自宅は金色堂みたいな金色のピカピカしたのを建てたみたいです」
 何だこの話は。ハンドボール大の金塊? フェラーリ? おとぎ話のたぐいか?
伊藤「私も2度ほど川の中で金を拾ったことはありますよ。小指の先くらいの小さなかたまりでしたけど」
 マジですか? 小指の先サイズだって、相当な値段が付くはずだ。
 黄金川でもヤマメが時折ミノーを追った。22cmくらいの側線沿いに赤い線が入ったきれいなヤマメをリリースした後、次のコーナーを曲がると、ひとりの男性が河原にしゃがみこんでいた。
 釣りでもなさそうだし、キノコ採りでもない。手には赤くて大きな皿が握られている。
伊藤「ああ、やはりまだいるんだな。砂金をとる人です。アメリカ流にいうなら、フォーティナイナーズですね」
 49ers。カリフォルニアで金が発見されたことにともない、1849年に金を求めてカリフォルニアに殺到した人たちを、そう呼ぶ。サンフランシスコを拠点にするアメリカンフットボールチームの愛称はそれに由来している。
 雫石の49ersか。僕はその49ersに話しかけてみる。
 金は採れるんですか。
「ああ、有名になると困るから大きな声では言えないが、まだ採れてるよ」
 聞くとこの砂金採りの男性は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、東北地方を支配した奥州藤原氏の末裔にあたり、第3代当主である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の六男、藤原頼衡(ふじわらのよりひら)の、系譜を継ぐ人物らしく、藤原博衡(ふじわらのひろひら)と名乗った。
「釣りはどうだ」
 小さいヤマメが釣れただけです。
「じゃあ、いいもの見せてやろう。昨日久しぶりに採れた一番でかいのがこれだ」
 男性は、角砂糖くらいの金のかたまりを見せてくれた。
 そのサイズの金にどれほどの価値があるのかは正確には知らない。知らないが、こんな川が人知れず残っている、雫石という土地には恐れ入る。


■ロッド紛失事件

 不思議なことが起きたのは、その49ersの男性と別れて、30分ほど経った時だ。
 僕が小用を済ませて、2人がいるところに戻ると、ロッドが見当たらない。朝伊藤さんに借りた、PE用のプロトだ。
 あれ、ロッドが……この辺に立てかけておいたんですけど。
吉川「本当に、この辺りですか」
 多分……ここだったような気がしますけど。
吉川「変ですねえ。無いですねえ」
 広葉樹の森と、エゾゼミの声に包まれた河原で、1本のロッドが忽然と姿を消した。
伊藤「あのですね。丹さんがトイレに行っているとき、視界を何か通ったような気がしたんです」
 何かって?
吉川「まさか、去年の釣りの時のように」
伊藤「ぬらりひょんかもしれません」
 ぬらりひょんの詳細は、「イトウガイドサービス2015夏」に詳しいが、簡単に言うと雫石の山岳渓流に棲むいたずら好きの妖怪で、危険が伴うような深刻ないたずらはしないけれど、釣りの邪魔は大好きだというちょっと困った伝説の存在だ。
 平成の時代に、そんな妖怪など信じる訳にはいかないのだが、信じないと多少つじつまが合わないことが、昨年の釣りで起きてしまったのも事実だ。
伊藤「10分くらい前から、森の様子が、なんか気配というか、ちょっと変わったんですよ」
 森の気配を感じる能力というのも、よく考えたら、ぬらりひょんの存在並みに不気味だ。
 周辺をしらみつぶしに探したが見つからない。仕方なく、僕自身のナイロンラインのタックルで上流へと釣り上ってみる。
 魚の反応はなくなった。昨年も、ぬらりひょんの気配を感じた瞬間から、さっぱり魚は釣れなくなった。それまであったチェイスもすべて無くなった。
伊藤「やっぱりぬらりひょんですね。昨年同様、こんな時は別の川に行くのが一番なんですが、無くなったロッドが問題ですね」
吉川「あそこにあるの……スイカですかね」
 と、吉川さんが突然言った。
 目を凝らしてみると、30mほど上流の河原に、スイカらしきものが置いてある。
 上流から流れてきたのかなあ。
伊藤「それにしては、岩の上ってのが変ですね」
 近づいてみると、岩の上にスイカが置いてあり、その隣に無くなったプロトのロッドが並べてあった。
 ……ロッドだ。
伊藤「お詫びのスイカでしょうね」
 ぬらりひょんということですか。
伊藤「そうなりますね」
吉川「何かの足跡があります」
 3本爪で、熊じゃないし……。
伊藤「ぬらりひょんの足跡です。これは珍しい。私も、子供の頃に何回か見て以来です」
 何となく、釣りをする気はなくなっていた。
 僕らはロッドを回収し、イトウガイドサービス本部へ戻って、スイカを食べた。きりりと冷えて、甘くておいしいスイカだった。

 1週間後、神奈川の自宅で仕事をしていると、今回の釣りに同行し撮影を担当した佐藤君からメールが入った。
<先日の釣りの写真を見ていたら、ロッドが無くなって、みんなで探している写真に、変なモノが写り込んでいました。僕が撮影したものに間違いはないのですが、こんなのを見た記憶はないんです。目の前を横切ったら普通気が付きますよね>
 添付された画像データを開いてみると、僕らが3人で川を歩いている様子を、下流から撮影した写真だった。カメラ位置と僕らの間で、川を横切っている物体がある。動物? 残念ながらブレていて姿ははっきり写っていないのだが、これがぬらりひょんなのだろうか。
 雫石では、やはり不思議なことがよく起こる。
















「イトウガイドサービス2016夏 中編」 丹律章 
ゴールドラッシュの川の巻

文=丹律章

rod:Proto model/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
main line:Cast Away PE 0.6/SUNLINE
lure:Bowie 50S, Emishi 50S 1st/ITO.CRAFT
heart:どんな出来事にも動じない平常心



■朝イチのキャストは難しい

 釣りの支度をして(もらったベストにルアーケースを入れ、ラインカッターを装着し、ネットをぶら下げて)、車に乗り込み釣り場へ向かう。
 車を降りると、すでに気温は上昇し始めていて、フリースは必要なくなっていた。ここまで1時間弱。1時間5000円。うーん、やはり納得いかん。
 釣り場に下りて最初のポイント。左側からの岸に生えている木の枝が、プールの上に大きく張り出している。サイドやアンダーキャストで、ライナーの弾道を作らないと一番いいスポットにミノーを落とすことはできない。
伊藤「ここは、いつもいい魚が付くポイントなんです。垂れ下がった木の枝に注意しながら、できるだけ奥の流れ込みに入れてください」
 慎重に、しかし思い切ってキャスト! オーバーハング直撃! ミノーは水面から1m50cmほど上空にある、ボサに突き刺さってしまった。朝イチの第1投目のキャストは、まだ手にグリップが馴染んでいないだけに、ミスも仕方ない。
 だが僕の場合、2投目も3投目も、100投目もミスすることが多いのが、多少問題ではある。
 ロッドをあおるとルアーはうまく回収できて、釣りを続けると何投目かでうまくポイントに入った。1mほどリトリーブしたところでバイト! 小さいなと思ったら、アブラハヤだった。


■PEライン対応プロトロッド

 気温はまだ低めで気持ちがいい、それに涼しいからアブも出てきてない。朝の日差しの中、僕らは渓流を釣り上っていく。
伊藤「PE用のプロトロッド使ってみますか」
 そうですねえ。そういってくれるのを待っていました。
伊藤「PEは感度がいいから、ダイレクト感が違いますよ」
 PEはゼロヨンとかですか。
伊藤「私は0.6号を使っています」
 PEラインの場合、0.6号で約10ポンド。4ポンドに合わせると0.2号か0.3号ということになる。
 ゼロロク? 思ったより太いんですね。
伊藤「強度的には、もっと細くても構いませんが、扱いやすさを考えるとこれくらいの方が使いやすい。細い方が距離は出ますが、渓流だから50mキャストする必要もないですし」
 ミノーが結ばれた状態のタックルをそっくりそのまま、伊藤さんが渡してくれる。いよいよ、モー娘。からAKBへの政権交代だ。
伊藤「長さは今のところ4フィート8インチ。PEラインは伸びがないので、ルアーの操作もアワセも、パワーの加減がダイレクトに伝わります。その特性に合わせて開発しました。追従性に優れているので、魚が乗りやすく、バレにくいのが大きな特長のひとつです」
 今使っている5フィート1インチより、5インチ短い。5インチは約13cm。結構な違いだ。ラインを通さずに振ってみても違いは歴然。
 キャストしてみる。長さの違いが、さらに大きく感じられる。
 そして、ロッドアクションをくわえたときの感触がダイレクト。ミノーのリップが受けている水の抵抗が手に取るようにわかる。AKB凄い。指原の頭の回転も凄い。
 これいいですねえ。もうちょっと使ってみてもいいですか。
伊藤「どうぞどうぞ」
 目の前に、いい感じのスポットが現れた。小渓流なので水深はさほどないが、底石の大きさと流れの具合がいい。オーバーハングはないので、上を気にせずにキャスト。1投目でドスンときた。
 来ました、これはデカイかもしれません。
 慎重に寄せてみると思ったより小さい。23cmくらいか。
 あれ?
伊藤「ラインがPEだから、アタリもファイトもナイロンより派手に、大きく感じるんです」
 なるほど。そういうことか。AKBには誇大表現のクセがある。
 僕の場合、海釣りではほぼPEラインを使う。イカは0.6号、シーバスは1号、メバルは0.3号。でも、渓流ではずっとナイロンだった。しかしこれが、渓流でPEを使ってみると、思いのほか使いやすい。これまでナイロンだったのが不思議なくらいだ。PE用に開発されたロッドの性能と相まって、格段に釣りが楽しくなった。
 上に張り出した木の枝によって、日差しがさえぎられているポイントが現れた。水深は50cm弱。15mほどの長さがある場所だ。
 流れ込みにミノーを落とし、トゥイッチングをくわえる。ポイントの中ほどで、ヒラを打つミノーの30cmほど後方に魚の影が見えた。直後にガツンと強烈なアタリ。
 アワセもうまい具合にいって、流れの中でヤマメが暴れているのが分かる。ネットですくうと、茶色っぽいボディにパーマークも鮮やかな、本ヤマメ系の個体だ。
伊藤「これはいいですねえ。この川に残っている貴重な天然系のヤマメです」
 サイズは26cmくらい。ヤマメを誘い出した緑色のボウイが、木漏れ日の中で光っている。
 川を渡る清涼な風と、透明で冷たい水に、この世のきらめきを集めたような魚。こんな景色と出会うために僕らは渓流の釣りをしているといっても、言い過ぎじゃないだろう。
 大堰堤まで釣りあがって、いったん車に戻る。
 空は青空。気温もぐんぐんと上がり始めた。次の川はどんな流れだろう。もちろん車内の音楽は「365日の紙飛行機」だ。















「イトウガイドサービス2016夏 前編」 丹律章 
ゴールドラッシュの川の巻

文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Proto model/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
main line:Cast Away PE 0.6/SUNLINE
lure:Bowie 50S, Emishi 50S 1st/ITO.CRAFT
heart:どんな出来事にも動じない平常心



 はてさて、毎度バカバカしいイトウガイドサービスでございます。
 時はうだるような暑さが続いていた2016年のお盆前。またもや、あのお客様が、イトウガイドサービスをご利用になります。しかし、今回はいつもと様子が違います。
 イトウガイドサービスを利用し始めて10年目となる彼に対し、特別サービスを企画したのです。10年目のイトウガイドサービスは、どんな釣りを用意しているのでしょうか。

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。


■調子の狂う無料招待

 釣りのガイド料金が1日10万円という価格設定も強気(この強気具合は、芸能人でいうと土屋アンナ並み!)だが、ルアーの現場売りは定価の2倍で、ネットに絡んだルアーのフック外しは状態によって1000円から2000円、クマに遭遇した場合のベアスプレーは1秒5000円(この場合は、クマを目の前にして、1秒お願いしますとか、2秒押してくださいとか、その場で指定して噴射してもらう)という設定もあまりにアホらしい(こちらは野生爆弾のロッシー以上)のが、イトウガイドサービスの最大の特徴。
 そんなイトウガイドサービスから、信じられない手紙が届いた。
<日頃のお客様のご愛顧に応えて、1日ガイドフィッシングへ無料招待いたします。ご希望の日にちをお伝えください>とある。
 なんと! あのボッタクリガイドサービスが、無料招待してくれるというのだ。
 もちろん僕はすぐに連絡し、お盆前の1日を予約した。
 釣り当日、午前4時半。太陽が北上山地から姿を現す前に、イトウガイドサービス本部前に到着した。すると、本部の玄関が開いて、伊藤さんと吉川課長が姿を現す。
伊藤&吉川「いらっしゃいませ~!」
 クラッカーがパンパンと早朝の空気を震わし、紙テープが、はなだ色の空を舞う。
 玄関の上には、【歓迎! 丹律章様】と書かれた看板が掛けられていて、10周年に伴う歓迎っぷりがよく分かるのだが、いつもの様子との違いに、ちょっと調子が狂うのも事実だ。
伊藤「この度は、遠いところ雫石までお越しくださいまして、ありがとうございます。今回も精一杯、ガイドをさせていただきます」
 はあ、よろしくお願いします。
 とここで僕は気が付いた。伊藤さんも吉川さんも、長袖姿だ。そして、僕は半そで短パン。寒い。雫石の電光掲示気温計は、13度だったのを思い出す。
 参ったなあ、ちょっと寒いですね。
伊藤「岩手ですから、朝は、首都圏より10度くらい低いのが普通です。しかも、ここは雫石ですから、盛岡よりさらに3度は低い。これくらいの気温は珍しくないですよ」
吉川「こんなフリースの貸し出しも行ってますが……」
 おっ、いいじゃないですか。
吉川「1日5000円になります」
 出た! いつものボッタクリである。
 でもさ、寒いの朝だけでしょ。2時間もすれば、夏の気温になるから、2時間だけでいいんですけど。
吉川「1日5000円です」
 2時間2000円でどう? これも相当高めのレンタル料だと思うけど。
吉川「1日、5000円です」
 この辺の割り切りは、逆にすがすがしい。10万円のガイド料は無料だけど、フリースのレンタルはいつも通りだ。
 僕は潔くフリースを借りた。
伊藤「タン様」
 はい。また何か僕に高額商品を貸し付けようという魂胆ですか?
伊藤「いえいえ滅相もない」
 それでは何でしょう。
伊藤「これなんですが……」
 伊藤さんの手には、フィッシングベストが握られている。フォックスファイヤーと共同開発したという、エキスパートメッシュベストだ。噂では、釣具店用の見本市で予約が殺到したという。確かに気になるベストではある。これもレンタル用か?
伊藤「これを……」
 いやいや、あのですねえ。フリースを1日5000円で借りたところなんですよ。ベストも1日5000円で貸そうって言うんですか?
伊藤「いえ、プレゼントさせていただこうかと……」
 は? プ、プレゼント? はあ。ああ……そうですか……喜んで……。
伊藤「10年通っていただいてますから」
 えーと、そうですね。
伊藤「着てみますか」
 はあ。
伊藤「ピッタリじゃないですか」
 そうですねえ。
伊藤「お使いください」
 ありがとうございます。
伊藤「いえ、お客様に喜んでいただいて、こちらも嬉しく思います」
 なんだか、朝から調子が狂いっぱなしだ。


■PEAKB

伊藤「ラインは何を巻いてますか」
 先々週使ったナイロンの4ポンドですけど。
伊藤「もちろんナイロンラインでも構わないんですが、私どもは最近ほとんどPEラインを使っております。それにともない、2017年のシーズンに発売予定の、PEラインに対応したロッドを試作中でして、試し振りしていただくことも可能です」
 なんですと! PE用のニューロッド? それは試してみねばなるまい。
伊藤「現在、いくつか新しいロッドのプロトが進行中なのですが、今回はPEライン用をご用意しましたので、とりあえず、丹様のリールには新しいナイロンラインを巻いて、釣り場でとっかえひっかえやってみたらよろしいかと」
 そうしましょう。これは楽しそうだ。
伊藤「新しいナイロンラインは3000円になります」
 フリースレンタル5000円、ライン購入3000円(定価は1500円くらいか?)。一方で、ガイド料金無料、フィッシングベストプレゼント。何が何だか分からん。
 しかし、PEの波もここまで来たか。
 3号とか4号とかという太いPEラインが、ジギングなどオフショアの釣りに浸透し始めたのが、25年ほど前だろうか。
 その後キャスティング用の細いPEが発売されるのだが、僕の記憶では、20年ほど前に、サンラインのPEラインで、1号16ポンドの100m巻きが、8000円以上した。使っている人はわずかだった。それが今は、100m巻きで2000円を切る商品もある。
 0.3号とか0.4号とかいう極細のPEラインも多く作られ、選択肢は今や無限。海のルアー、バス、トラウトと、PEラインは魚種にとらわれずに進出し、今やナイロンラインを使う場面の方が珍しいともいえる。
 長く続いたナイロン王朝の隆盛からPE政権への変遷という図式は、モーニング娘。全盛の時代からAKB48の台頭という、国民的アイドルグループの移り変わりに似ている。
 1999年、モーニング娘。は大ヒット曲ラブマシーンを発売。国民全員が日本の未来をウォウウォウと叫んでいた。もちろんナイロン大王もウォウウォウと叫んでいた。
 1998年から2007年まで紅白歌合戦に連続出場したことを考えると、この10年弱がモー娘。の全盛期といっていい。
 その全盛期の2005年、AKBはメジャーデビューしている。紅白への初出場が2007年、2009年には国民的アイドルと呼ばれ始め、ヘビーローテーションの発売が2010年である。当然、2010年にはPEラインは釣りの世界を網羅しつつあった。
 つまり、2005年からの約5年ほどが、モー娘。からAKBへの過渡期であり、それはちょうど釣りの世界での、ナイロンからPEへの過渡期と重なる。
 何の話だったか分からなくなってきたが、つまりは、釣りも人生も紙飛行機なのである。









「釣りが完成する瞬間」 丹律章 
2016.10.6 文=丹律章



 確かフライ関連の雑誌だと思うが、かつて興味を引く記事を読んだことがあった。
 不確かなのだが、おぼろげな記憶を探って再現すると、こんな感じだ。
≪釣りはどの場面を持って完成するのだろうか? ある人は、首を振りぐいぐいと暴れた魚が水面に浮いて、降参した時だといった。またある人は、持ち帰って家でその魚の命を頂いた時だといった。でも自分の場合は違う。魚が自分のフライに完璧な状態で出た瞬間だ。その瞬間に、自分の釣りは完成する≫
 出た瞬間。
 フッキングした瞬間ですらない。
 分からないでもない。その人の好きな釣りがフライフィッシングであって、おそらくは、マッチザハッチと呼ばれる釣りを、愛好しているのだろう。
 マッチザハッチは、その瞬間に狙っている魚(たいていの場合は、定位置でライズしている魚を狙う)が、食べている虫の種類、その虫の状態を予想し、それに合ったフライをプレゼンテーションして、魚をだます釣りだ。
 予測には、川に生息している虫の種類に関する知識がいるし、季節や時間による虫のハッチ、あるいは変態の知識もいる。何年か蓄積したデータも、あれば便利だ。気圧や天候も、虫のハッチに影響する。
 その予測が外れれば、魚は水面に出ないし、出ても直前で食うのをやめたり、口は開いてもちょっとつつくだけに終わったりする。しかし、大きさや色、形状、流れるレンジがマッチすれば、魚は疑うことをせずに、エサを捕食するときと同じように出て、フライを吸い込む。
 そこまで騙せればいいというのが、このフライフィッシャーマンの考えなのだろう。
 自分の推理が100%当たればそれで満足。その後のこと、つまりはフックが外れようが、ラインが切れようが、さほどの問題ではないということだ。
 確かに分からないではない。完璧に騙せたなら、満足感もあるだろう。
 だが、しかし、と僕は思ってしまう。
 やはり、ネットに入れるまでは100%とは思えない、と。
 ルアーの場合は、水面に出でるのとはちょっと違うから、それをヤマメがルアーを食った瞬間と置き換えたとしても、やはりその後も大事だ。ヤマメがルアーを吐き出す前にロッドを跳ねあげてフッキングし、サイズや釣りをしている流れに応じて慎重に、素早くやり取りをして、魚を寄せて、ネットを背中から外し、ミノーの空いているフックがネットの枠やアミに絡んだりしないように、ネットインする。そこまでやって釣りは完成すると思う。
 さらにその後。にやけた顔で魚のサイズを計測したり、魚をなでたりする行為も是非にやりたい行為だが、ネットインした後で、ルアーを外す際に逃げられてもあまり悔しくはないから、やはり自分の場合は、ネットインの瞬間にピークを迎えていると考えた方がよさそうだ。
 考え方は人それぞれ。
 前述のフライフィッシャーマンを否定するつもりもないし、もしかしたら、その釣りの分野では、それが普通の考え方なのかもしれない。
 でもやはり僕の場合は違う。
 ネットを背中から外す瞬間に始まり、ネットインによって終結する興奮の数秒を、とても大切なものだと思う。
 だからランディングネットは背中にぶら下がっていてほしいし、できるならそれは、職人の手によって作られた、本物であって欲しい。


【追記】
 この原稿は、実は3年ほど前に書いたもので、ちょっとした事情で眠っていたものですが、今でも、「ネットに入れた瞬間に釣りは完成する」という僕の認識は変わっていません。
 しかし、先日、イトウクラフトのテスターの人たちと話していたとき「写真を撮るまでは完成ではない」という意見を聞きました。中には、「撮影前に逃げられるくらいなら、釣らない方がいい」とまで言ったテスターもいたのです。
 思うに彼らは、半ば釣りのプロであるがゆえに、証拠写真を残して、ウェブサイトに掲載可能な状態にしないと納得できないのでしょう。
 それはそれで尊重します。
 だけど、僕はやっぱり違うんだな。
 ネットに入れて、キャッチした時点で完成。その後はおまけ。彼らが何と言おうと、僕の場合は、ネットに入れた時が、釣りの完成の瞬間なのです。





「イトウガイドサービス2015夏 後編」 丹律章 
かき氷と謎の妖怪の巻

2015年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
(tune-up)Mountain Custom CX/ITO.CRAFT
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:Bowie50S, Emishi50S 1st Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
heart:科学的に説明できない事柄でも、受け止める精神的な広さが大切
liver:大量に摂取するアルコールを素早く分解する瞬発力と、それを継続する持久力が必要
drag:ウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬など

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。



■妖怪のいたずら

 さらに上流を目指すと、川に落差が現れた。10mほどの滝を高巻いて通過し、さらに上流のエリアへ移動する。
 長いトロ瀬の先端にルアーを落とし、トゥイッチで誘うと、軽く30㎝以上はあろうかというヤマメが追ってきた。しかし、ギリギリのところで食いつかない。次のポイントでも、尺上がやる気満々の蛇行しながらのチェイスをしたのだが、またも惜しいところでフックアップせず。
 惜しいなあ。食いつかせるための技術がどうにも足らないみたいです。
「そうですねえ。でも、この活性なら、まだまだチャンスはあるんじゃないですかね」
 そうですか。では、次のポイントに行ってみましょうか。と、対岸に渡ろうと流れに一歩踏み出した時、僕の左手を、伊藤さんが掴んで制止した。
「ちょっと待って……いま、見えませんでしたか?」
 見えなかったかって、何を?
「上流の、落ち込みの上あたり……」
 ええ、何も。
「さっきから気配は感じていたんですが、今視界の隅を横切ったような気がしたんです。そうすると、ダメかな」
 どういうことですか? ひょっとしてクマでもいましたか?
「いえね、ぬらりひょんが出たのかもしれません……」
 えーと、それって、朝、蔵の中の絵に描いてあった?
「ええ、そうです」
 それがいたっていうんですか?
「はっきりと見えたわけではないのですが……」
 いやまあ、それは目の錯覚でしょうけど、たとえば、ぬらり……ひょんでしたっけ? それが今近くにいたとして、何か僕らに関係があるんですか?
「雫石のぬらりひょんは、山岳渓流に棲むいたずら好きの妖怪と言われていて。あいつがいると、魚が釣れなくなるんです。見えないところで釣り人につきまとって、釣りの邪魔をしているみたいなんですね。先行して、場を荒らしたりとか。実際、以前に変な気配を感じた日も、その後さっぱり釣れなくなったんです」
 伊藤さん、マジで言ってます?
「真面目ですよ。私が不真面目なことを言ったことありますか?」
 何度もありますけど……まあ、それはそうと、そんなおとぎ話みたいな話を信じることはできませんよ、さすがに……それに、伊藤さんがウソを言っていないとしても、釣りはしてもいいんでしょ。特に危険とかそういうことじゃないんですよね。
「それは構いません。ぬらりひょんはいたずら好きだけど、人を溺れさせたりとかいう、深刻ないたずらはしないと、昔から言われてます」
 これまで、雫石ではいろいろ不思議な体験をしてきたけど、川に妖怪が出たから釣りやめますって……無い無い!
 釣りを再開する。しかし、川は一変していた。それまでポイントポイントであった、やる気のあるヤマメのチェイスはどこかへ消え失せ、反応はゼロになった。
 30分ほど釣り上ったが、反応は無い。
 あのデラックスな、かき氷屋の効果は、ぬらりひょんで相殺されたんでしょうか。
「はっきりとはわかりませんが、そういうことだと思います。今現在、ぬらりひょんは見えませんし、気配も感じませんが、どこかで我々を見ているはずです。釣りを開始すれば、また面白がって着いてくるでしょう。こんな時は、川を変えるのが一番です」
 ぬらりひょんはともかく、釣れないのは事実なので、移動しましょうか。
 僕らは、斜面を上って林道に出た。


■憎めない妖怪

 ……それより、腹減りません?
「そうですね。朝購入したおにぎりなら吉川課長が持っていると思います」
「ええ、私のベストのポケットに……あれ、おかしいな。無いぞ」
「確か、5個くらい残っていたよな」
「ええ、そのはずで……」
「あ、やられた!」
 どうしたんですか?
「多分、ぬらりひょんの仕業です。こうやって食べ物を盗み食いすることもあるんです」
 はあ? 何が何だかわからない。
 幻のデラックスなかき氷屋でかき氷とプリンを食べたのだが、そのかき氷屋は跡形もなく消え失せ、魚が釣れたと思ったら、今度は妖怪のせいで釣れなくなり、おにぎりも妖怪に食べられたという。
 これが雫石か。宮沢賢治の童話じゃないんだから……そういえば、イーハトーブってこの辺なのかなあ。
「それじゃあ、いったん車で町に下りましょうか。最寄りの食堂まで30分ってとこでしょうか」
 マジっすか。腹減った!
 僕らは、とりあえず、車を停めた場所まで林道を戻ることにした。
 5分ほど歩いた時だった。
「おーい、あんた達かい?」と、林道をこちらへ歩いて近づく白衣の人影があった。
「電話で、冷やし中華を届けてくれって言われたんだけど……腹を減らしている釣り人がいるからって。半信半疑で来てみたんだけど、本当にいたね」
 まあ、確かに、僕らは腹を減らした釣り人には違いないのですが、電話をした覚えはありませんよ。
「電話してきたのは、聞いたことのない名前だったね……ヌラさんって言ったかな、あんたたちの知り合いじゃない?」
「ぬら……そうか。それ、私らの注文で間違いありません」
 ぬら……りひょん。
 代金を払い、川原に戻って冷やし中華を食べる。
 ぬらりひょんも、いいとこありますね。
「いたずらは好きなんですが、いいところもある。だから、困ったやつだな~くらいで済んで、本気で憎まれることはないんです」
 僕はすっかり、ぬらりひょんの存在を受け入れている自分に気がついた。
 とりあえず、魚は釣れた。川原で食べる冷やし中華も旨い。今日の釣りも100点に近い……あれ、僕のエビ、知りません?
 冷やし中華のてっぺんに乗っていたエビが無くなっていた。
「また、やられましたね」伊藤さんが言った。
 時間的にはまだ余裕があったが、僕は何となく気が抜けてしまった。釣果以上に、色々なことが起こりすぎた。しかも、理屈では理解不能なその出来事は、詳細が解明されないまま、実際に起きた出来事として記憶された。
 僕らは、イトウガイドサービスの本部に戻り、恒例となった宴会へと突入する。
 まずはビールだ。吉川課長が生ビールの機械をセットしてジョッキに注ぐ。
 大和森林統括部長が、様々な食材を持って現れた。
 ウナギ、アユ、カジカ。全て、雫石の渓流で取れた魚だという。
 ジンギスカン肉もあった。そ、それは……多分、肉屋で買ったものだと思う……そう信じたい。
 宴会は暗くなってもまだ続く。生ビールを飲み、肉を食い、魚にくらいつく。玉ねぎを食べ、キャベツを食らい、また肉を食う。
 大和さんが焼いてくれたカジカの串を取って、かぶりつこうとしたとき、後ろで何か気配がした。振り返っても誰もいない。
「どうかしましたか?」
 正面に座っている伊藤さんが怪訝そうな顔をした。
 いえ、何でもありません。でも確かに何かの気配がしたんだよな。ウサギとか、キツネ?手元を見ると、串に刺さっていたカジカが全て無くなっていた。
 見上げると、林の向こうに満月が上っている。
「どうかしました?」また伊藤さんが言う。
 いえいえ。僕は串を焚き火に放り込んで、新しい串をとる。そして、大急ぎでかぶりつく。誰にもとられないように。

 1週間後の土曜日。僕が神奈川の自宅でくつろいでいると、釣りに同行し写真撮影を担当したスタッフの佐藤君からメールが入った。
<先日の釣りの写真を整理していたんですが、1枚の写真に、変なモノが写りこんでいるんです。写真添付したので見てください>
 クリックして写真を開く。
 すると、釣りをする僕の後ろには吉川課長。その向こう側に木が生えていて、その木に寄り掛かるように、何かが写っている。
 こんな所に人はいなかったはずだし、だいたいこれは人じゃない。これが、あの日僕らの釣りを邪魔した、ぬらりひょんなのだろうか。
 雫石では不思議なことがよく起きる。















「イトウガイドサービス2015夏 中編」 丹律章 
かき氷と謎の妖怪の巻

2015年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
(tune-up)Mountain Custom CX/ITO.CRAFT
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:Bowie50S, Emishi50S 1st Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
heart:科学的に説明できない事柄でも、受け止める精神的な広さが大切
liver:大量に摂取するアルコールを素早く分解する瞬発力と、それを継続する持久力が必要
drag:ウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬など



■注文の多くないかき氷屋

 僕らはその日2つ目の場所へ移動してきていた。最初のエリアは不発で、さらに上流の支流へ入ったのだが、1時間ほど遡行しても魚の反応は良くない。
 時刻は9時を回っていて、気温がぐんぐんと上昇し始めていた。
 暑いですねえ。ペットボトルの水は持ってきてますけど、もっと冷たいものが飲みたいですねえ。とはいっても、コンビニなんかないだろうし、自販すらなさそうだし。どうにかなりませんか?
「……どうにか、なるかもしれません」
 伊藤さんが軽く応えた。
 なるんだ……どんなふうに、なるんだろう。
「今日の気候と川の感じから察するに、あと10分くらいで冷たいものに出会うことができるかもしれません」
 伊藤さんはそういうが、ここは山の中だ。冷たい飲み物の出前とかいつの間にか頼んだのだろうか。
 2つほどカーブを曲がると、僕はその先の景色に目を疑った。

――あのですね……聞いてくれます皆さん。夏の田舎の国道沿いに、パラソルの下でアイスクリームを売っているお姉さんがいるじゃないですか……あんな感じで川原に小さな店があったんですよ。まさかでしょ。シュールを通り越して、異様な光景でしょ。僕はその光景を理解するのに、10秒ほどフリーズしましたね。

 川原にテーブルが置かれ、やたらと顔のデカいデラックスなお姉さんが、「氷」の旗を出して出店を構えていた。
 メニューには、岩手山のミネラル氷を使用した1杯3,500円のかき氷と、雫石産マンゴー入りの1つ5,800円のプリンの2種類があった。
 不自然と言えばあまりに不自然。売り子の顔も不自然。とはいえ、こちとら暑くて喉が渇いている。不自然さと暑さを天秤に掛けたら、簡単に暑さに軍配が上がった。
「ここはですね、夏の季節だけ、かき氷の出店が出るんです。この辺の川で釣りをする人なら誰でも知っている有名店ですね。値段もいいけど、この誘惑には勝てない」
 まずは、デラックスなかき氷を3つオーダーする。
「イチゴもあずきもいいのですが、是非にこのミルクを追加トッピングして下さい。デンマークから直で取り寄せている、特別なコンデンスミルクらしいですよ」
 イチゴは香り高く、ミルクは濃厚で、氷はこめかみを直撃する冷たさだ。汗が引いていく。川原は急に資生堂パーラーのカフェになった。
 次に、雫石マンゴーのプリンも食べてみる。
「マンゴーと言えば南の島のイメージですが、夏の雫石には、マンゴーの栽培に適した土地もあって、そこの完熟マンゴーは、東京の果物やさんでは、1個2万円の値がつくそうです。現地価格はそこまで高くはありませんが、それでも直売所で1万円を下回ることはないですね」
 マンゴーは濃密な太陽の味がした。それがプリンと見事に融和して、ひとつの柔らかな味を形成している。川原は一瞬で、銀座千疋屋のフルーツパーラーになった。
 僕らは料金を払い、上流を目指す。10mほど上の淵でルアーを投げると、魚の追いがあった。次のキャストで同じサイズの魚が食いついた……がすぐにバレてしまう。
「あの店は不思議な店でね……あの店が出るのは、晴れて暑くて、なおかつ魚の活性が上がるタイミングなんです。あの店に出会えれば、この後の釣果に関しては安心していいんですよ」
 ホントですか。そりゃラッキーだ。確かに魚の活性が上がった気がする。
 僕は、何の気なしに、そのラッキーな店を振り返った……と、そこには何もなかった。テーブルもかき氷も、デラックスな売り子も、何もない。全てが掻き消えていた。
「そういうことです。今日はラッキーです」
 何が「そういうこと」か分からない。あれは幻か? でも、口の中には、まだマンゴーの香りが残っている。
「あまり考えないことです。川に行った。美味しいかき氷とマンゴープリンを食べた。釣りを続ける。それだけのことです」
 伊藤さんの言っている言葉が、日本語に聞こえない。いや、日本語には違いなくて単語それぞれは理解できるのだけれど、文章がすんなり頭に入ってこない。
「幻でもいい、現実でもいい。それはどっちでもいいことです。時にそれは、ひとつの物事の裏と表だったりもしますよ」
 ますます分からない。分からないまま、僕は次のポイントにルアーを放り込む……と、垂れ下がったボサにルアーが引っ掛かってしまった。
 理解不能な展開に、集中力が切れていた証拠だ。
 ルアーを外しに水に入ろうとすると、伊藤さんが「ちょっとお待ちください」と言う。
「魚いますね。大きくはない。24くらいかな。コンディション見たいので、釣ってみていいですか?」
 ああ、どうぞ。根掛かり中の僕には手も足も出ませんから。
 伊藤さんがライナーでルアーを飛ばす。1投で掛けた。24cmジャストのヤマメだった。
「うん。大きくはないけど、コンディションはいいです。この先も期待できます」
 ルアーをボサから回収し、ラインを結びかえてすぐ上のポイントへルアーをキャストした。すると、すぐに反応があった。水面が割れ、魚がギューンと走り、吉川課長がネットインする。
 真夏にしてはまあまあのサイズ。メジャーをあてると26cmあった。
「かき氷屋に出会えたのだから、このくらいのサイズは当然です。今日は、尺の上はもちろんもっとでかい魚の可能性もありますよ」

(後編に続く)















「イトウガイドサービス2015夏 前編」 丹律章 
かき氷と謎の妖怪の巻

2015年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
(tune-up)Mountain Custom CX/ITO.CRAFT
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:Bowie50S, Emishi50S 1st Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
heart:科学的に説明できない事柄でも、受け止める精神的な広さが大切
liver:大量に摂取するアルコールを素早く分解する瞬発力と、それを継続する持久力が必要
drag:ウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬など



 1年半のご無沙汰となりました。毎度バカバカしい、イトウガイドサービスでございます。
 いつの間にか時が流れ、前回のガイドサービスの報告から数えると、季節が5つほど通り過ぎてしまいましたが、雫石の山も川も、ガイドサービスのメンバーも元気に過ごしております。
 さて、2015年夏。岩手と秋田の山岳地帯を中心に渓流のルアーフィッシングのガイド業を営むイトウガイドサービスを、またあのお客様が利用なさるようでございます。
 今回は、どんな釣りが待っていることやら。
 時は2015年の夏休み、お盆前のことでございます。

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。


■コナコーヒーとスズメバチ

 1日のガイド基本料金が10万円、フィッシングプレッシャーの少ない川を希望すればオプション料金が3万円。釣り場にフィットするルアーの現場価格は定価の倍で、川で食べるソフトクリームは3千円という、超高額な価格設定の、このガイドサービスを初めて利用したのが2007年の夏だから、この釣りも今年で9年目ということになる。これまで年に1度か2度、岩手県の雫石を訪れては、ガイドの人たちとともにヤマメを釣ってきた。
 もちろん自然相手の遊びだから、釣果が一定であることなどありえない。釣れた日もあったし、あまり恵まれない日もあった。35㎝の生涯最大のヤマメを釣ったのもこのガイド中だし、魚釣りができずカブトムシを捕りに山に入ったこともある。
 正直なところ、ガイド料金は僕のフトコロに相当な打撃を与える。しかし、紅色に染まった尾びれの完璧な形や流れる水の清冽さ、山と森の香りや川に吹いてくる風の感触など、ガイド中に出会った数多くの思い出に照らし合わせてみると、出ていったお金と心に蓄えられた感動の質と量は、まあ悪くないバランスを保っているような気がする。
 盆休みを2日ほど前倒しで取って、僕はお盆前の雫石を訪れた。
 今年の夏は恐ろしく暑く、僕が住む神奈川の最高気温は連日35度、北関東の内陸部では40度に迫る暴力的な気温が続いていたが雫石はさすが北国。朝の気温は20度を少し上回る程度だ。
「おはようございます」
 イトウガイドサービス本部に到着すると、ガイドの吉川さんが現れた。
「まずは、ウェルカムドリンクですが、何をご所望になられますか?」
 ビール好きの僕の場合、これが夕方3時過ぎならば間違いなくビールとなるところだが、さすがに朝5時にビールを飲む習慣はない。
 それじゃ、アイスコーヒーでも貰いましょうか。
「承知しました」
 いったん建物の中に消えた吉川さんが、1分ほどで戻ってきた。手には褐色の液体が入ったボトルが握られている。
「ハワイ島に我々が所有しております、コーヒー農園で栽培したコナコーヒーを瓶詰めしましたスペシャルコーヒーでございます」
 コーヒーの最高級ブランドのひとつであるコナコーヒーか、やるな。
「通常、コナコーヒーと申しましても、それはブレンドがほとんど。うちのように、コナ100%のアイスコーヒーはそうそうあるものではございません。現地でのハワイ島での卸売価格が1本30ドルほどで、東京の高級ホテルで飲めばグラス1杯1500円は下らないかと」
 なるほど。ところでイトウガイドサービスって、コーヒー農園もやっているんですか?
「はい。ハワイ島に100ヘクタールほどの農園を所有しております」
 100ヘクタール……ってどれくらい?
「およそ、東京ドーム20個分ですね」
 ……とにかく広いってことだけは分かった。
「ところで丹様。お顔色がよろしくないようにお見受けしますが……」
 ああ、分かりますか? 先週からちょっと仕事が立て込んでいまして、一昨日まであまり寝ていなかったんです。昨日は最終の新幹線で盛岡に来て、一晩ちゃんと寝たんですが、疲れはすぐには取れませんね。
「丹様」吉川さんの後方から、突然伊藤さんの声が聞こえた。
「それならいいのがございます。滋養強壮には、雫石の山に生息するエゾオオスズメバチを漬けこんだハチミツが効果的です。毎年スズメバチを捕まえてハチミツに漬けるのです。今年漬けたものもありますが、効果抜群の10年物がありますので、どうぞこちらへ」
 そういうと、伊藤さんは本部の裏手にある、土蔵へ案内してくれた。
 重い扉を開けて、暗い内部へ入る。目が暗さに慣れてくると、ハチミツよりも先に、変な絵が目に入った。
 これ、何ですか?
「ああ、これね。雫石の山に生息する、ぬらりひょんの絵です。昨日、蔵の中を整理していたら出てきまして……」
 その絵には、耳が細長くて、ミノを着たような奇妙な生物が描かれていた。
 ぬらりひょん? 聞いたことありますね。ゲゲゲの鬼太郎に出てきたような気がしますけど、妖怪か何かでしたっけ?
「ぬらりひょんという妖怪は、ゲゲゲの鬼太郎にも出て来るし、江戸時代に書かれた妖怪の絵巻などにも登場しますが、雫石でいうぬらりひょんは、ちょっと違うんです」
 違う……。
「山に住んでいる生き物で……私も何度か怪しい気配を感じたことがあります」
 気配? 本気で言っているんですか?
「はっきりと見たことはないですよ。でもね、ちょっと異質な温度というか、匂いともいえない匂いというか、つまり気配ってことなんですが、あれが、40年以上前に祖父が言っていた、ぬらりひょんかなと思ったことは何度かあります」
 妖怪の存在を、信じていると?
「うーん、まあ、可能性という意味で言えば、絶対にいないと断言はできませんね……それはそうと、これがその10年物のハチミツです」
 そういって、伊藤さんはハチミツの瓶を持って土蔵から出ていった。僕も後に続く。
「10年物は、効果が高いんです。釣りの前にひとくち召し上がったらいかがでしょうか」
 勧められるままにスプーンでひとくち頂いてみる。濃厚なハチミツの甘さの奥に、独特の苦みが感じられた。何やら効きそうな気配だ。
「スズメバチを漬けるのはいいのですが、問題は捕獲なんです」
 そうですよね。刺されたら大変ですからね……スズメバチ用の殺虫スプレーか何か使うんですか?
「口に入れるものですから、殺虫剤は使えません。殺虫剤どころか、生け捕りにしてハチミツに漬けるところがキモなんです。だから捕獲が大変です」
 なるほど……生け捕りですか。想像したくないな。
「刺されたら大ごとです。実際大ごとでした……見ますか?」
 伊藤さんの手首には、1週間ほど前にスズメバチにやられたという、刺された跡が残っていた。恐わっ!


■雫石の絶叫マシーン

 釣りの準備をしていると、体がカッカしてきた。スズメバチハチミツの効能だろうか。お腹が温まって、頭も少しすっきりした気がする。
 釣り場へ出発。伊藤さんの運転する車で10分ほど走ると、町を抜け緑が多くなってきた。支流へ続く林道へと曲がったところで、車を下りてくれと促される。
 ここで釣り? まだ山の入り口ですけど。
「いえ、これかぶってください」と、伊藤さんが僕にヘルメットを渡してきた。
 ヘルメット? 工事現場? それともケービング?
「ここからはジムニーで行きます。ちょっと険しい道ですので」
 道が険しいとしても、ヘルメットいります?
「崖をトラバースする狭い道で、車が横転したりしたら危ないじゃないですか」
 横転って、そんなに危ないんですか……それに、横転して崖を転落したら、そもそもヘルメットがあってもダメじゃないですか。
「まあ乗りましょうか」
 伊藤さんが軽量化を施したという、2スト時代のスズキ・ジムニーに乗り込む。僕もしぶしぶ助手席に乗ってシートベルトをしっかりと締める。エンジンを掛けると、2スト独特の軽い排気音が谷間に響く。
「行きますよ」と言うやいなや、伊藤さんはアクセル全開。ジムニーは猛ダッシュを開始した。窓の外の森の景色が後方へすっ飛んで行く。
 前方には狭いダートロードがくねくねと続いている。そこを猛スピードで疾走するジムニー。伊藤さんはその先のカーブがどれくらいのアールなのか分かっているからアクセルを踏み込めるのだろうけれど、知らない僕には、あきらかなオーバースピードに思える。僕は床を思いっ切り踏み、ドアのハンドルを左手で硬く握り、右手は天井に突っ張って、体をシートに固定する。そうしなければ、横Gに耐えられない。
 富士急ハイランドの絶叫マシン「フジヤマ」を数倍上回る恐怖にさらされること10数分。ジムニーが止まりエンジンが止まる。目的地に到着した。
 絶叫マシンで疲れ果てた体を休めていると、先ほどまでみんなで乗っていたSUVを吉川さんが運転して到着した。ジムニーじゃなければ来られない道ではないのだ。僕にジムニーのスリルを味わわせるのが、ガイドサービスの目的だったようだ。
 移動手段には文句を言いたいが、到着した目的の川は申し分ない。緑の森のトンネルの中を、適度な落差を作りながら透明な水が流れている。周囲の木々からは鳥の声が聞こえ、それに覆いかぶさるようにセミが鳴いている。水面上に貼り出した木の枝がちょっとキャスティングの邪魔だが、魚の生息条件は満点に近い……とはいっても、最近は、いかにもいそうなポイントで、魚の反応が全く無かったりすることも多いのだけれど。
「朝食はどうしましょう。少々歩きますから、何かお腹に入れておいた方がいいかと」
 伊藤さんが、僕のことを気遣ってくれる。
「朝なので、軽めのものしか用意しておりませんが、パン類にカツ丼、キムチ冷麺に豚骨ラーメン、デザートにはシュークリームと大福を用意しておりますが」
 どこが軽めだ! 僕は一番軽い菓子パンをもらって、食べながらタックルセットをする。
 空は青空。林の向こうからせせらぎの音が聞こえてくる。朝からセミも元気がいい。
 見ると、吉川さんが朝食を始めていた。まさかのキムチ冷麺だ。朝からキムチ? 3分で完食した吉川さんは、次におにぎりを2つ食べ、最後に大福のパッケージを開けた。良く食うねえ。
「お召し上がりになりますか……大福」
 いや、遠慮しておきます。
 薮を漕いで川に下りると、涼やかな風が上流から吹いていた。夏の北国の朝の風だ。そんなパーフェクトに近い環境の中で、僕はルアーを投げ始める。

(中編に続く)













「イトウガイドサービス2014春 後編」 丹律章 
奇跡の山岳寿司屋の巻

2014年5月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP早春渓流スペシャル5Lb/VARIVAS
lure:Emishi50SD、Emishi50S、Emishi50S Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
stomach:何より量を処理する能力が求められる
drag:定番のウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬などを必要に応じて

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。



■イトウガイドサービスに不可能はない

 時計を見たら昼をとっくに回っていた。それを意識した途端に腹が減ってきた。
 あの、ですね……そろそろ昼飯を食べたいんですけど……。
伊藤「は! 了解しました。どんな昼食をご所望ですか?」
 そうだなあ。冷たいそばとか讃岐うどんでは軽すぎだし、家系のラーメンでは濃すぎかな。カツとかカレーライスっていう気分じゃないし……うーん何かなあ。そうだ、お寿司なんてどうですか?
伊藤「は? 寿司……っですか? ここ、山の中なんですが……」
 ああ、寿司いいですねえ。口に出したら、ますます寿司が食べたくなってきたなあ。こうなったら寿司だな。それ以外考えられない。
伊藤「通常、美味しいお寿司屋さんは海沿いにあってですねえ……」
 僕はとっても寿司が食べたいんだけど、やっぱり無理ですかあ? そうかも知れませんねえ。
伊藤「…………」
 そうですよねえ。ここ山の中ですからねえ。寿司とか無理ですよねえ。
伊藤「…………」
 イトウガイドサービスでも、それだけは不可能ですよねえ……。
 伊藤さんのこめかみがピクリと動いた。伊藤さんのこめかみは怒りのバロメーターである。何年かの付き合いで、僕はそれを覚えた。やばい! ちょっといい過ぎたかも……。
伊藤「丹様、今、不可能とおっしゃいましたか? 私どもイトウガイドサービスにも不可能と、そうおっしゃいましたか?」
 あ、いえ……そんなこと言ったかなあ。言ってないと思うけどなあ、ハハハハハ。
伊藤「吉川課長、大和寿司に連絡を取れ」
 吉川さんがベストのポケットから携帯電話を取り出す。
吉川「電波、繋がりません」
伊藤「あれがあるだろう」
吉川「あれ?……ああ、あれですね」
 次に吉川課長が取り出したのは、トランシーバーだった……どう見てもおもちゃにしか見えない……青色の……プラスチッキーな……。でもどこかで見たことがある。あ、そうだ! 去年の夏、カブトムシ捕りの時に、森林警察を呼んだのがこのおもちゃっぽいトランシーバーだった(イトウガイドサービス2013夏 後編を参照下さい)。
 吉川課長がどこかへ連絡を取っている間、伊藤さんが説明をしてくれる。
伊藤「この川の上流へ林道を詰めて、行き止まりに車を停めてですね、そこから山を二つ越えたところの、1500m級の山の中腹に寿司屋がありましてね」
 1500mの山の中腹に寿司屋? 山小屋じゃなくて?
伊藤「ええ、寿司屋なんです。徒歩で片道4時間はかかるから、朝一番に車止めを出発しても、寿司を食べて帰ってくるころには夕暮れになってしまいます」
 日帰りぎりぎりじゃないですか。
伊藤「そうなんです。それでも、シーズン中はなかなか予約が取れないみたいですよ。それほど人気の寿司屋ということです」
 まさか、今からそこに行こうって話じゃないですよね。着いたころには夜ですよ。
伊藤「もちろん違います……あ、課長、連絡つきましたか」
吉川「はい。1時間ほどで」
伊藤「なるほど……丹様、今寿司の手配をしました。1時間ほどお待ちください。その間、周辺で釣りをしていただいて……」
 どういうことですか?
伊藤「常人の足ならば片道4時間でも、寿司屋の主人なら1時間かからずに下りてこられますから」
 出前をここに呼んだってことでしょうか?
吉川「その通りです。明日VIPが来店するとのことで、今日は休みにしていたそうなんです。そこを無理言って来てもらうことにしました」
伊藤「イトウガイドサービスに、不可能はございません」


■VIPの寿司屋

 でもVIPって。まさかどこかのセレブが歩いて登るんですか?
伊藤「いえ、山の寿司屋にはヘリポートが完備してございますので、明日来店するというハリウッド俳優はヘリを利用なさるのでしょう。ちなみに、アメリカのO大統領も、A首相との会談の後で、お忍びでヘリをチャーターして来たみたいですよ」
 マジっすか! 大統領がお忍びで来る寿司屋のご主人を呼び出したんですか! 驚きの話だけど、料金の方も驚きの数字になりそうな予感がします。
伊藤「それは、ご覚悟下さい。私どもはお客様の希望をかなえさせていただいただけですので」
 料金は気になるが、期待に胸が膨らむ。
 そろそろ1時間かなあ、という頃。やぶの向こうががさがさと揺れたかと思うと、白い調理服姿の男が、姿を現した。マジで寿司屋だ。寿司屋の主人だ。
主人「お待たせしました」
伊藤「無理言ってすいません」
主人「では、早速準備させて頂きます」
 あの、寿司屋のご主人、大和さんじゃないですか? 森林統括本部長の……。
伊藤「いえ、彼は大和本部長の双子の弟なんです。さすがに双子なので似ていますが別人です。まあ、そういう関係で多少の無理が効くわけです」
 多少ではないと思いますが……。
主人「20分ほどで用意しますので、着替えをなさってくつろいでください」
 ここで握るんですか? 出前じゃなくて、出張寿司屋じゃないですか。
伊藤「出張を頼めるのは、特別な人のみです。先週も大臣経験のある代議士が出張を依頼してきたらしいんですが、断ったみたいですよ」
主人「代議士先生でも、一見さんはお断りしてますのでね」
 僕らは近くに止めてあった車に戻り、ウェーダーを脱いで服を着替えた。5分ほどで戻ると、そこには寿司屋があった。カウンターにガラスケース、提灯、客間には畳がひかれている。
 主人の帽子には、シマフクロウの羽根が差してある。シマフクロウの生息地は日本では北海道だけとされているが、奥に行けば雫石にもいますよと、ご主人はこともなげに言う。それが本当なら、鳥類学者がひっくり返る発見だろう。
主人「まずはビールでよろしいでしょうか」
 ビールがあるんですか? それは凄い! 当然缶ビールを予想していたのだが、出てきたのは何とジョッキの生ビールだった。
 生……ですか!
主人「はい。サッポロでございます」
 客のビールの好みまで把握しているとは。さすが大統領やセレブ御用達の寿司屋だ。この寿司屋の凄さがひしひしと伝わってくる。
主人「うちは、おまかせコースのみですが、それでよろしいですか」
 はい。よろしいですよろしいです!


■美味! 奇跡の山の寿司

主人「山の寿司屋ですから、山の幸のお寿司になります」
 山の寿司屋の夢の時間はそうやって始まった。
 まず出てきたのは、コゴミの軍艦巻きと、シドケの軍艦。
 正直、何だこりゃ、と思った。しかし食べてみると、これが気絶するほどうまい。山の空気と周囲の景色があと押ししているのだろうけれど、そのあと押しとて僅かなもの。しゃりも絶妙の握り具合で、口に入れた瞬間に酢飯がほろほろと崩れる。
 葉わさびの軍艦、タラボの握り、行者にんにくとヤマメの炙り、イワナの焼がらしと続く。ビールはいも焼酎からマムシ焼酎をはさんでイワナの骨酒に代わり、気がつくと2時間が経っていた。
 僕が満腹の腹をさすっていると、ご主人は、「そろそろ戻りませんと、日が暮れてしまいますので」と後片付けをし、風のように去っていった。どっどどどどうと、どどうどどどう。ほろ酔いで車に戻ると、そこには運転代行が待っていた。いつ、誰が呼んだんだ? ここ、携帯電話繋がらないんじゃないの?
 そこから先のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
 イトウガイドサービス本部に戻ると、BBQの用意がしてあって、僕はまた生ビールから始め、ホタテやラム肉を食べた。シイタケのバター焼きも食べた。タラボの天ぷらも食べたような気がする。
 散々食べて、飲んで、朝、目が覚めたらまた冬の気温だった。
 ガイドサービス本部を後にするとき、支払いを済ませた。110,000円だった。基本料金とダウンジャケットレンタル料のみ。何故だ? 不気味だ!
伊藤「大和寿司の出前は別料金になりますので、あとで請求書を送らせて頂きます」
 僕は雫石を後にし、盛岡の実家へ戻る。
 あれから3週間。まだ請求書は届かない。ドキドキの日々が続いているが、次に行ったら、また出前を頼んでしまいそうな僕がいる。
 できたら、僕の支払い、A首相に付けといてもらえませんかね。

(了)













「イトウガイドサービス2014春 中編」 丹律章 
奇跡の山岳寿司屋の巻

2014年5月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP早春渓流スペシャル5Lb/VARIVAS
lure:Emishi50SD、Emishi50S、Emishi50S Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
stomach:何より量を処理する能力が求められる
drag:定番のウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬などを必要に応じて

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。



■新緑と秋田美人

 釣りの支度を整え、イトウガイドサービスの車に乗り込む。雫石川の水系は、昨年夏の大雨に伴う災害の後、全く釣れなくなったらしい。渓流魚は激流にもまれて多くが消えてしまっただろうし、倒木やら何やらで渓流自体も姿を変え、何より渓流の上流へ向かう道路が未だ復旧していない。
 だから、目指すは秋田の渓流だ。
 車の窓の外には、冬と春が混在していた。山の芽吹きはまだまだで冬枯れのままだ。しかし、道路脇には桜が咲き誇っている。
伊藤「今の雫石は、水仙とこぶしと桜の花が同時に咲いているんですが、例年ならこんなことはないんです。桜は普通、水仙やこぶしの後に咲くものですから。何日か暖かい日があって、桜だけ季節を勘違いして早く咲いてしまったんです。これは、何か異常気象のサインのような気がします。去年の夏みたいなことにならなければいいんですが」
 僕は4月の初めに神奈川で桜を見た。ゴールデンウィークに岩手や秋田、青森などを訪れれば、2度目の桜を見ることができる。2度目の花見は少し嬉しいが、異常気象は願い下げだ。日本は春と秋が短くなり、どんどん熱帯の気候に近くなってきているという説もあるようだし……地球はどうなってしまうのだろう。
 仙岩トンネルを抜けて秋田側へ下りると、そこは春真っ盛りだった。明らかに雫石より季節が早い。山も芽吹き、新緑が今まさに盛ろうとしている。
 芽吹くタイミングは植物の種類によって少しずつずれるから、ちょっと前に芽吹いたもの、さらに前に芽吹いたもの、今芽吹いたもの、今まさに芽吹かんとしているもの、色々だ。そのタイミングによって緑の濃さが異なり、山は色とりどりの緑に覆われている。
 全部緑なのだから、厳密に言えば、色とりどりという表現は適さないのかもしれないが、それでもやはり色とりどりの緑というのが、僕には最もしっくりくる。
伊藤「新緑っていうのは、やはりいいものですねえ」
 同意。
 車は緑のトンネルをくぐって川沿いの土手に出た。対向車線を自転車に乗った若い女性が通り過ぎる。
吉川「秋田のおなごっていうのも、やはりいいものですねえ」
 もちろん同意。


■ヤマメ釣り、水は高い

 水が多い。それが現場について川を見た時の、伊藤さんと吉川課長の一致した意見だ。
伊藤「雨が降ったわけじゃないですから、よほど山に水が蓄えられている証拠ですね」
 それは悪いことじゃないが、歩きにくいしルアーの操作にも気を使うし、釣りにくいことに間違いはない。
伊藤「まだ水温が低いので、ルアーに反応しても追う距離が短いとか、バイトが浅いとか、そういった現象が考えられますので、集中力を高めて釣りして下さい」
 集中力か……僕の最も欠けている部分だな。自信はないができるだけご期待に添えるようにしようではないか。
 しかし、突然のショートバイトに備えた集中力も、肝心のバイトやチェイスが無ければ役に立たない。
 普段瀬になっている部分は、豊富な水量を伴う流れにつぶされ、投げたルアーはあっという間に足元に戻ってくる。適度なトロだった部分は流れの速い深瀬になり、平水状態では流れが止まっているようなところだけが、唯一魚が定位できそうに見える。
 緩い場所だけを狙って流れをチェックする。それ以外はパス! 反応が無ければ早めに見切りをつけ、少しでも条件の良い川を求めて移動。
 足早のラン&ガン。4つめか5つ目の川。堰堤付近で反応を得られず、その下の落ち込みの下流で、少しいいサイズの魚影がミノーをチェイスした。すぐさまキャストし直し、先ほどよりゆっくりリトリーブする。
(ブルン)
 いい感触があって、魚が乗った! 白い。ヤマメらしい。25cmくらいか?
 足元に寄せたあとで、背中のネットに手を伸ばす。無い! そうだ。ベストじゃなくチェストパックで釣りをしていたので、ネットを持ち歩いていなかったのだった。
 振り返ると、吉川課長が1m後方にいた。
吉川「すくいましょうか?」
 当たり前でしょう! 早くすくってよ。
吉川「あー、掛かり悪いですねえ。大丈夫かなあ……テールフック1本で、今にもバレそうですねえ」
 分かってるなら、早くすくえ!
 吉川課長がネットインしたヤマメは、体の赤みが強く、尾ビレの上下も赤く染めた、天然系のヤマメだった。
 ネットの中でおとなしくなったヤマメにしばし見とれる。こういう魚は、東北に来なければ出会えない。


■ヤマメもいいけどタラボもいい

 別の川へ移動しようと、車へ戻る途中、吉川課長が何かを見つけた。
吉川「タラボ、ですねえ」
 おっ、僕もタラボの天ぷら、好きですよ!
伊藤「東京ではタラの芽って言いますね。採っていきましょうか」
吉川「でも、タラの木が高すぎて、手が届きませんよ」
伊藤「吉川課長でも無理か」
 そういって伊藤さんがとりだしたのは、柄の長い鎌のようなものだった。俗称かもしれないが、山菜鎌と呼ぶらしい。伊藤さんは曲がった刃の部分をタラの木の先の方に掛け、横から引っ張る。たわんで地上から少し近くなったタラの木の枝を吉川課長が掴み、先端の目を折り採る。
吉川「夜の天ぷらですね」
 それより、その長い柄の鎌、今までどこに隠し持っていたの?
 しばらく進むと、シダのような植物の密生地帯に差し掛かった。
伊藤「コゴミだな。これも採らねばなるまい」
 コゴミはそこらじゅうに生えていた。密生しているので、ひと掴みで10本ほどのコゴミが収穫できる。確か神奈川のスーパーでは、10本ほどで280円くらいだったはずだ。ひと掴み280円を3秒で収穫。ガイド料金1日100,000円というイトウガイドサービスの料金設定と、どちらがより暴挙、ぼったくりなのか、判断に苦しむところだ。
 次に現れたのは、葉わさびだ。塩もみして湯通しすると、辛くて旨い酒のつまみになる。冷奴に乗っけてもいいし、ご飯にも合う。
 シドケの群生地にも出くわした。標準和名はモミジガサ。独特の香りがあって、おひたしが抜群に旨い。僕の一番好きな山菜で、これだけはどれだけたくさんあっても飽きない。
 アイヌネギもあった。精がつくことから行者にんにくとも呼ばれる。修行中の行者さんたちが、パワーを付けるために好んだのだろう。
 山菜採りに来たわけではないのだが、見つけた山菜を成り行きで摘んでいたら、あっという間に大量収穫となった。東京のスーパーで買ったら、4,000~5,000円分と思われる量の山菜が、僅か10分ほどで採れた。山菜天国だな、ここは。

(後編に続く)















「イトウガイドサービス2014春 前編」 丹律章 
奇跡の山岳寿司屋の巻

2014年5月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP早春渓流スペシャル5Lb/VARIVAS
lure:Emishi50SD、Emishi50S、Emishi50S Type-Ⅱ/ITO.CRAFT
stomach:何より量を処理する能力が求められる
drag:定番のウコン系やキャベ2、パンシロン胃腸薬などを必要に応じて



 毎度バカバカしい、イトウガイドサービスでございます。
 岩手秋田の奥羽山脈エリアの川を中心にルアーフィッシングのガイド業を営んでおります、イトウガイドサービスのもとを、またあのお客様が訪れます。
 前回は昨年の夏、記録的な豪雨の後に訪れたこともあって、釣りは全くできず、カブトムシを捕ってお茶を濁されましたが、その濁ったお茶もお客様は大変気に入った様子。大変満足してお帰りになられました。なによりなにより。
 さて今回は、どんな釣りが待っているのでしょう。
 時は2014年のゴールデンウィーク。5月初めのことに相成ります。

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。


≪ 雫石に春はあるか ≫

 僕は盛岡の実家から、雫石へ向かう国道46号線を走っていた。
 ゴールデンウィーク前半の僕は現在住んでいる神奈川県にいて、日中は半袖半ズボンでも過ごせる陽気に夏の到来を感じ、心から喜んでいたところだった。しかし盛岡は神奈川とは違い、かなり涼しい。長袖シャツの上にスウェットパーカーを着こんで、僕はイトウガイドサービスの面々が待つ雫石へ出発したのだった。
 盛岡市内から雫石までは、距離にして20キロ弱、車で30分と近い。しかし、盛岡インターを通過し、小岩井の入り口を通り過ぎ、雫石に入ったところで、僕は奇妙なものを見た。
『6℃』
 それは電光掲示の温度計だった。現在の気温6℃。その掲示板は確かに6℃を示していた。6℃……神奈川の次元でいうなら、それは冬の最低気温ということになる(調べてみたら、2014年の1月9日の横浜の最低気温が6℃だった)。
 何かの間違いだろうと思った僕は、窓を細く開けてみた。冬の冷気が車内に流れ込んできた。僕は慌てて窓を閉めた。
 マジかよ。
 ほどなく、イトウガイドサービス本部に到着する。本部前では吉川課長が待ち構えていた。車から出ると、そこはやはり冬だった。雫石は日本に属さず、チベットとかアラスカとかペルーなんかと国境を接しているのではないだろうか。
 凄すぎるぞ、雫石!
吉川「おはようございます。昨夜はぐっすりお眠りになられましたか?」
 ええ。寝れましたけど、それよりなんですか、この寒さは。
吉川「雫石でございますから、これくらいの寒さは普通ですね。むしろ暖かく感じる気温でございます。先週はバケツの水が凍ってましたから」
 ホントですか? 雫石ってすごいところですねえ。
吉川「ウェルカムドリンクはいかがでしょう。サービスさせて頂きます。ビール、シャンパン、それともコーヒー?」
 それじゃ、コーヒーを。
吉川「アイスコーヒーでいいですか?」
 寒いんですよ。ホットに決まってるじゃないですか!
 カップに入ったコーヒーが届いて、僕はそれを両手で包み込みながら飲む。胃袋が少し温かくなった気がした。
吉川「ラインは万全ですか?」
 いえ、前に使ったやつがリールに巻いてあるので、交換して欲しいんですが。
吉川「了解しました」
 吉川課長が僕のカーディナルから古いラインを抜き取っていく。僕は温かいコーヒーを飲みながらそれを眺める。空は薄い雲に覆われているが、その上にはうっすらと太陽の存在を感じる。これは雲ではなく霧に近くて、1時間もしたら晴れるに違いない。冷たいがやさしい風が、頬を撫でていく。遠くで鳥が鳴いている。悪くない。
 自然の密度が薄い関東エリアに住んでいると、こういったささいな事象が琴線に触れる。
 風で木の葉がかさかさと音を立てる。夜露に濡れた春の森の香りが漂っている。やっぱり悪くない。


≪ 早春用スペシャルラインの是非 ≫

伊藤「おはようございます」
 伊藤さんが現れた。
伊藤「ライン交換ですか? 今なら早春用のスペシャルラインがございますが、そちらにしましょうか」
 早春用? 何が違うんですか?
伊藤「早春の東北の渓流は水温も気温も低いので、トラブルがないような柔らかさの設定になっております。なおかつ、この時期のシビアなバイトも取れるような、感度と低伸度を実現しました。メーカーに直接依頼して、イトウガイドサービスの特別バージョンを作って頂きました。正直、このラインでないとこの時期のヤマメは……」
 分かりました。それにします。その早春用何とかに巻き替えてください。
伊藤「お買い上げありがとうございます」
 あ、それのライン、いくらするんですか?
伊藤「価格ですか? 大したことはございません。特別なラインですから定価は12,000円とちょっと高めですが、丹様はお得意様でございますので、特価にてご提供させて頂きます」
 げっ、高い! そう思ったが、既にパッケージは開けられていた。
 吉川さんが新しいラインを僕のリールに巻き始める。ちらっと見ると、特価は6,800円とあった。特価でも十分に高い。しかもパッケージに書かれている「早春渓流スペシャル」という文字は手書きっぽく、普通に釣具屋で売っているラインに油性マジックで後から書き加えただけのようにも見えたが、それは多分、僕の思い過ごしだろう。春先の釣りに特化した、素晴らしい性能のラインに違いない……そう思い込まなければやってられない。
 ラインを巻き終えた吉川課長が、青いジャンパーらしきものを持って来た。
吉川「もし寒いようでしたら、レンタル用のダウンジャケットもございますが、いかがいたしましょう」
 レンタル料金は1日10,000円だという。ユニ○ロのダウンなら、10,000円出せばおつりがくるはずだし、寒いのは朝のうちだけだ。山あいでもすぐに暖かくなるだろう。しかし、大切なのは未来ではなく、現在だ。現在の寒さだ。僕はダウンジャケットをレンタルすることにした。
 ジャケットを着てコーヒーの残りをすすると、既にそれは冷たくなっていた。僅か10分の間に、舌が焼けるほどのホットコーヒーとアイスコーヒーの両方を味わえるとは、雫石はなんと素晴らしい土地なのだろう。
 さすがにダウンジャケットは温かかった。雫石の低温にも負けない。素敵だ。

(中編に続く)









「イトウガイドサービス2013夏 後編」 丹律章 
カブトムシの夏休みの巻

2013年8月
文=丹律章



 僕は、クマよけ用のホイッスル替わりのフエラムネを3分ほどピーピーして、食べた。30年ぶりのフエラムネは、意外に美味かった。(写真①)
「これでも、100%の安全が確保されたわけではありません」
 そりゃそうだろうね。フエラムネだもんね。
「ですが、もしもの場合には、ガイドが対応しますから、ご安心ください」
 そりゃ心強い。
「我々は常に武器を携帯しておりますから」
 唐辛子スプレーか? それともナタか?
「これです」
 自信満々に吉川課長が取り出したのは、圧縮空気で飛ばすおもちゃのピストルだ。(写真②)
「ベースはおもちゃですが、フルチューニングを施しておりますので心配いりません。シリンダーを超硬度ジュラルミンに変えて、圧力を1万倍に高めてあります。これでクマもイチコロでしょう。もちろんこれはガイド料金に含まれております」
 どこまで本気なんだか……どれだけの勢いで弾が飛び出すかは知りませんが、その弾、スポンジですけど。
 15分ほどうろつくが、カブトムシの姿は見つけられない。(写真③)
「15分の間に、クヌギやらコナラやらカブトムシが好む木はいくつもあったのですが、すべてカブトはいませんでした。もしかしたら先行者に捕られてしまったのかもしれません」
 岩手の山奥に来ても、ヤマメは簡単に釣れない時代になった。同様に、雫石の山奥でも、カブトムシは簡単に捕れないのだった。
「最後の手段だな、吉川課長、頼む」
「はっ」と吉川課長は青い、おもちゃのように見えるトランシーバーを取り出した。
「森林警察隊長、感度ありますか」(写真④)
 はっ、誰? 大体、森林警察ってなんだ?
「隊長、感度ありますか?」
 2度目の呼びかけに反応があった。
「こちら隊長。その声は吉川課長か?」
 なにやら、吉川課長が交渉を始めた。どうやら、森林警察とやらに応援を頼むらしい。
 数分後、林道の奥から一人の男が姿を現した。大和さんだった。(写真⑤)
 大和さんはイトウガイドサービスの森林統括本部長という役職にあり、これまでもキノコを採ったり、ウナギを捕ったりと大活躍してきた。その彼は、県から委託され森林警察隊長という大役も兼任しているのだ。山を歩き、その保全に努める。つまり山のプロだ。
 伊藤さんが、カブトムシ捕りに来た旨を大和さんに、いや、大和森林隊長に伝える。
「なんだ、そんなことか。それならこっちだ」
 山のプロは、カブトムシの居場所までパーフェクトに把握している。
「確かに道路から近い場所のカブトムシは、最近すぐ捕られてしまうけど、ちょっと森に入れば、カブトなんてうじゃうじゃいるのさ」(写真⑥)
 道路からちょっと山に入る。しかし大和さんの言うそのちょっとは、30分あった。
 道なき道を、坂を上り、次に下り、草をかき分け歩くと、そこには1本の大木があり、幹から樹液が垂れていた。樹液が垂れた場所は周囲より黒ずんで見え、その黒ずんだ場所は樹液によるものかと思ったら、カブトの群れだった。(写真⑦⑧)
 木の幹から樹液が流れ、それにカブトムシが群がっている。その数15匹。僕は勢い勇んでカブトムシを捕まえ、次から次へと虫かごへ放り込んだ。(写真⑨)
 その1本の木で、僕は十分に満足した。大和さんは、もっと奥に行けばいくらでもいると言ったが、別に100匹捕りたいわけじゃない。それに、30分の往路には、当然、30分の復路がついてくる。正直疲れていた。
 ゼイゼイハアハアとあえぎあえぎ、やっとのことで車にたどり着く。
 いやあ、疲れたなあ。何か、疲れを吹き飛ばすようなものないですか?
「フエラムネ、まだありますけど」と吉川課長が言う。
 いやそういうのではなく、酸っぱいのがいいなあ。梅干しとか。
「ございます」(写真⑩)
 マジで?
 吉川課長が取り出したのは、梅しばだった。これも1個500円だという。僕は連続して2個食べた。疲れていた。酸味が体にしみた。しかし、梅の酸っぱさだけで、体が復調したわけではなかった。
 実はここに来る前僕は、仕事が詰まっていて、しかも夏風邪もひいていた。何とかなるだろうと、だましだまし来てみたが、どうやら体が悲鳴を上げ始めていた。
 大和さんと別れ、山を下りて本部へ向かう途中、僕は熱が出始めたのを感じていた。

 イトウガイドサービス本部に到着するころ、僕は大変な体調不良に襲われていた。
 タープの下に置かれたベンチに体を投げ出した。もう立っていられなかった。
 ダメだ体調が悪いです。熱が出たようです。
 すぐに吉川課長が体温計を持ってきた。測ると40度近い。それを見た途端、目がくらくらしてきた。(写真⑪)
 朦朧とする中、伊藤さんと吉川さんがパタパタと動き回っているのが分かった。頭の上に氷嚢が乗せられた。頭の下には氷枕がセットされた。少し気持ちはいいが、よくなる気配はない。(写真⑫)
 伊藤さんがどこかに電話をかけ始めた。
「……か? 今どこにいる?……熱出してよ……そうそう。でな……カワヘビよ。そうそう……タマゴ無いか?……そうだな……すぐに欲しいな……それじゃよろしく」
 目の前が暗くなってきた。僕はそのまま気を失った。
「……さま……丹様……お加減はいかがですか?」
 伊藤さんの声で目を覚ました。僕は30分ほど気を失っていたらしい。
 えーと、まだ全然ダメです。起きられません。
「特効薬が届きましたので、お飲みください」
 目の前には、先ほど山で別れた大和さんがいて、手にグラスを握っていた。(写真⑬)中にはなにやら赤い物体が入っている。目の焦点が合ってくると、それは生タマゴに似た物体で、普通のタマゴよりは小ぶりで、色だけがまるっきり違う。真っ赤だ。(写真⑭)
 えーと、それは何でしょう。
「これは、この辺の山に棲むカワヘビのタマゴで、体調不良の特効薬です。何にでも聞く万能薬なので、安心して飲んでください」
 いや、安心してって言われても、カワヘビってなんですか? 聞いたことないんですけど。
「えー? ご存じありませんか? 胴体が太くて、寸づまりのヘビで、とにかくタマゴが抜群に効くんです」(写真⑮)
 胴体が太くて、寸づまり? それって伝説のツチノコのみたいだなあ、と僕は回らない頭で少し思った。
 差し出されたグラスの中の赤いタマゴは、おどろおどろしくて、とても口に入れたい代物ではなかったけれど、それをくどくど説明して、飲むのを拒否する方が億劫だった。伊藤さんと大和さんの言うことに従った方が楽だと思い、僕はグラスを受け取って、一気に飲み干した。赤いタマゴは普通のタマゴとは全く違い、強烈に苦かった。
 またしばらく、僕は気を失っていたようだった。ふと目が覚めた。
「おや、丹様、お目覚めですか。体調はいかがでしょう」
 ええ、少し良くなったような気が……
 僕はそういってベンチに起き上がる。あれ? 身体を覆い包んでいただるさが霧散していた。頭痛も消えていた。腰の痛みもない。何より熱が完全に下がっていた。測ると、36度5分。平熱だ。
 治ったみたいです。
「カワヘビのタマゴを飲んで頂きましたので、熱が引くのは当たり前です。急激に回復するのがカワヘビのタマゴの効能ですから、もう大丈夫でしょう。そろそろ肉を焼こうかと思っているのですが、丹様は召し上がって行かれますか?」
 急に腹が減ってきた。
 ええ。体調が良くなったので、ごちそうになります。
「飲み物はいかがいたしましょう」
 のどが渇いているのに気が付いた。
 では、ビールを。
 死にそうなほど熱が出て、わけの分からないタマゴを飲まされてから30分。僕はビールを飲むほど回復していた。
 生ビールが届く。一息に半分ほど飲み干す。病み上がりとは思えないほど、ビールが美味い。(写真⑯)
 ところで伊藤さん、あのタマゴなんですが。
「ええ、カワヘビですね」
 それって、この辺に結構いるもんなんですか?
「見たことないですか? いますよ。さすがに街中では最近は見なくなりましたけど、昔は家の裏の林とかにもいたもんですよ。噛まれると、マムシよりも猛毒ですから、年に何人かは救急車で運ばれたもんです」
 胴が太いとか言ってましたけど。
「そう。胴が太くて、短くて、頭が三角で、緑色のタマゴを産むんです。この辺にはあまりいなくなりましたけど、まだ山に行けばたくさんいますよ」
 それツチノコじゃねえか、と僕は思った。伝説の未確認動物。見つけたら100万円っていうキャンペーンもあった気がする。いるのか? 本当に。でもまあ、雫石ならいてもおかしくないか。
「丹様、肉が焼けました」
 吉川課長の声がした。(写真⑰)
 ビールを片手に、肉をほおばる。視界の隅の地面を、黒い物体が横切った。短くて太いヘビのような生物に見えた。

(了)















「イトウガイドサービス2013夏 中編」 丹律章 
カブトムシの夏休みの巻

2013年8月
文=丹律章



「だからこれは、ロッドのブランクではなく、虫取り網のバンブーブランクなんです」(写真①:文中写真番号は、右写真の上から数えた順番に対応する)
 はあ?
「だから虫取り網! エキスパートカスタムの虫取り網を発売予定なんです」
 虫取り網を発売? 気は確かですか?……あ、そうだ……釣りじゃなくそういう手もあるか……あのですね……この辺って、カブトムシなんかたくさんいるんでしょう?
「そりゃいますよ」
 じゃあさあ、カブトムシ捕りに行きません?
「カブト?」
 釣りもできないし、カブトムシ捕りのガイドして下さいよ。
「丹様、何をおっしゃっているんです。我々は、釣りのガイド集団です。他のガイドサービスは致しません」
 いや、今日釣りができなくなっちゃったので暇なんですよ。
「無理です。今回は不慮の天災ですから、キャンセル料金も頂きませんので……」

 僕は作戦を変更する。
 あ、そう。イトウガイドサービスでは、カブトムシガイドができないんですか。無理なんですか。なんだ、で・き・な・い・んだ!
「できない」の部分をわざとゆっくり発音してやった。
 すると、伊藤さんのこめかみがピクリと動いた。
 そりゃあそうですね。イトウガイドサービスにだって、できないことはありますよね。
 伊藤さんの目が、すっと細くなった。伊藤さんは「できない」という表現が大嫌いなことを、僕は知っている。
 伊藤さんは僕をにらみつけている。僕は知らぬふりをして、遠くの空を見ながら無言で耐える。ここが勝負だ。
 10秒後。
「丹様、了解しました。カブトムシガイドやらせて頂きます」
 よし! 初のイトウカブトムシガイドサービスだ。

「ところで、足元は大丈夫ですか?」
 あ、そうか。釣りのつもりだったからウェーティングシューズはあるけど、他はクロックスだけです。
「クロックスはいけませんねえ。一番いいのは長靴です。レンタルもありますが、いかがいたしましょう」
 あ、なら、貸してください。
「了解しました。1日、5,000円で、消費税込みで5,750円になります」(写真②)
 さすがぼったくりのイトウガイドサービスだ。1,980円くらいで買えそうな長靴を、1日5,000円で貸すとは。それに、今、消費税増税で、5%が8%になるとか騒がれているが、そんなのはまだかわしい方だ。イトウガイド帝国では、独自の法律が通用しているらしく、消費税は15%なのだった。
「さあ、行きましょうか。でっかいカブトいるかなあ」
 カブトムシガイドを渋っていたくせに、伊藤さんも吉川課長も、行くとなったら、急に張り切り出した。
 なんか、うきうきしてません?
「いえ、そんなことは……」
 さっきの座った目つきはどこへやら、あきらかにカブトムシ捕りに上機嫌となった伊藤さんがハンドルを握り、吉川課長と僕も車に乗り込む。(写真③)

 山へ向かう車内には、モーニング娘。が流れていた。去年はAKBだったのに、心境の変化ですか?
「AKBはまだトップアイドルですが、天井を打った気がします。山を登り切ったらあとは下りるだけ。次はモー娘。が巻き返してくると、私は見ますね」
 へえ。
「道重がずいぶんと大人になってリーダーらしくなりました。それが大きい。それに鞘師里保は人気絶調だし、工藤遥も伸びそうですね」
 伊藤さんが自信たっぷりに言う。山にも釣りにも詳しいが、イトウガイドサービスはアイドル事情にも詳しいのである。
 普段なら自分好みの有料の音楽に変えてもらうところだが、伊藤さんが推すモー娘。をちょっと聞いてみたくなって、そのまま聞き入ってみる。そうこうしているうちに、田んぼや畑の間の道を走り、林の脇に停まった。
 正直、モー娘。が再び来るのかどうか僕にはわからなかった。鞘師も工藤も知らないし。

 作業場で見つけたバンブーのブランクには、網がセットされ、長尺の虫取り網に変身した。(写真④)吉川課長が、ハンディタイプの虫取り網をフィッシングベストの背中にセットする。(写真⑤)
 ちなみにこのシングルハンドの虫取り網には、「North Buck」のロゴが書き込まれていた。百均で売っている虫取り網と同じ色をしているが、イトウクラフトのエンブレムが光っている。(写真⑥)
「フレームはカリンバールを使用していますが、これはプロトなので、青く塗ってカモフラージュしています」と吉川課長が言う。
 カモフラージュ?
「ええ。他のランディングネットメーカーが真似して虫取り網を先行発売したらショックですから」
 真似しないって。
 バンブーロッドの発売予定はないが、虫取り網の方は、エキスパートカスタムブランドから6フィート2インチのバンブーモデルが、ノースバックブランドからもショートハンドルのタイプが発売予定なのである(なんかよく分からないメーカーだなあ)。

「カブトムシポイントはこの奥なのですが、先週クマが出たので、気を付けていきましょう」
 えっ、聞いてませんけど。
「ええ、言ってませんでしたから」
 気を付けるって、どう気を付けるんですか。
「まあ、周りをよく見て歩くこと。それと、匂いを気にすることですかね。クマが近くにいたら獣臭いですから。まあ、出会いがしらにクマと遭遇して、向こうが襲ってきたら、戦うのみですが」
 いやいや。大山倍達じゃないんだから、勝てないって。
「まずは、クマに我々の存在を気付かせることが先決です。ホイッスルで、森に音を響かせ、クマに退散してもらうという方法もあります。有料のホイッスルも用意がございますが」
 吉川課長が隣に来て、自信満々にベストからあるものを取り出した。
「ひとつ500円になりますが」
 手にしたのは昔懐かしい、フエラムネである。(写真⑦)
 これで、クマに知らせるの?
「はい」
 マジで?
「ええ。安全のためです」
 それにしても高いですねえ。それ、ワンパッケージ100円ぐらいでしょう?
「無理にとは言いません。クマがうじゃうじゃいますが、必ず襲われるわけではありません。では行きましょうか」
 吉川課長が、フエラムネを仕舞いかける。
 いや、頂いておきます。500円でクマを追い払えるなら安いもんだ。追い払えるなら、だが。
 僕はパッケージから1個受け取り、ピーピーと吹いてみた。情けない音がした。これでクマが逃げてくれるのだろうか。逆に寄ってこないか?(写真⑧)
 3分ほどピーピーして、食べた。30年ぶりのフエラムネは、意外に美味かった。

(後編に続く)











「イトウガイドサービス2013夏 前編」 丹律章 
カブトムシの夏休みの巻

2013年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
tackle:ロッド無用、リール不要。虫取り網と虫かごは必携のこと
wear:虫刺されを考慮して長そでに長ズボンが望ましい。「オレはヤブ蚊もアブも平気だぜ」という人は短パンも可
shoes:長靴がベスト。ワークブーツもGOOD。スニーカー可。サンダル不可
eyes:カブトムシやクワガタを見分ける目
stomach:強力なもの。前夜から食事は控えて、もちろん朝食は摂らずに参戦すること
drag:定番のウコン系や、胃腸薬系などの薬物を必要に応じて適量摂取する



 さあお立会い。毎度バカバカしい、イトウガイドサービスでございます。
 前回皆様とお会いしたのが、約半年前。渓流でヤマメを釣りながら流しそうめんなどしたのが、2012年のイトウガイドサービスでございました。
 ヤマメは大したサイズが釣れなかったのでございますが、まあそれはいつものこと。それより流しそうめんとスイカが美味かったなあなどと、ガイドサービスを利用した当人は回想しているようでございます。
 そして2013年。
 またまた雫石にやってまいりました。だがしかし、ちょっとタイミングがよろしくないようで、今回のガイドサービスはどんな釣りになるのか、波乱の幕開けとなりそうな気配にございます。
 いい魚が釣れるのか釣れないのか。さあさあ、御用とお急ぎでない方は、ごゆるりと見ていきな、読んでいきな、笑っていきな!

『あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません』

 8月のお盆前。日本中がうだるような熱波に包まれていた夏のど真ん中。僕は新幹線で、盛岡を目指していた。目的は釣り。雫石のイトウガイドサービスを利用して、周辺の山々を釣ろうという計画だ。
 新幹線に乗る直前、電光掲示板に気になる表示があった――秋田新幹線は運行を見合わせています――どういうことだ?
 東京から盛岡へ向かう2時間半。車内の電光掲示にも情報が入ってくる。大雨により秋田新幹線は不通。釣りは翌日からの予定だった。秋田の釣りは無理なのかなあ。僕はのんびりとそう思っていたが、事態はそんなに甘くなかった。
 一関で新幹線が北上川を横断した時、川は平水に見えた。秋田は大雨でも、岩手県側は大丈夫なんだな、と思った。10数分後、北上の手前で再び北上川を渡った時、川は全く違う姿に変わっていた。氾濫の手前の様相。河川敷は水で埋まり、水は赤茶色に濁り、巨大な倒木が多数、流れの真ん中を流されていく。上流部に降った大量の雨が本流に到達し、その先兵が北上と一関の間を進軍していた、その瞬間に僕は出会ったのだった。
 奥羽山脈の西と東、秋田の西部から岩手の東部にあたるエリアに、集中豪雨が降り、河川は大増水、氾濫した水は道路にあふれ、ところによっては土石流も起きていた。
 釣り? それどころじゃないな、多分。

 翌朝、車で雫石に向かう。雨は少し上がっている。国道46号線は普通に流れていて、何も問題はない。
 予定時間にイトウクラフト前に着くと、伊藤さんと吉川課長が近づいてきた。
「おはようございます」(写真①:文中写真番号は、右写真の上から数えた順番に対応する)
 あ、どうも。またお世話になります。どうでしょう、やはり釣りは無理ですか?
「丹様、私どもも、今日はまだ川を見に行ってはいないのですが、昨日の状況から推測するに、相当厳しいかと……」
 とりあえず、川の状況を確かめに行こうと、伊藤さんの車に乗り込み、雫石川本流へ向かう。

 あれま。(写真②)
 それが雫石川を見た僕の、正直な感想だ。無理。釣りなんてどう考えても無理。
 次に上流へ行ってみる。上流部は、あれま、どころの騒ぎではなかった。
 道路は陥没し、低い土地に立った家には浸水の後が残り、橋は落ち、道路脇には巨大な倒木が転がる。(写真③)
 この倒木、どうやってここまで来たの?
「この先に支流の合流点がありまして、その川が氾濫しました。その川から流れてきたのでしょう。つまり、昨日はこの道路が川になっていたということです」
 …………。言葉を失う。
「2年前の震災があって、内陸は津波の被害を受けなかったわけですが、山間部にはこういう形の自然があります。こういう鉄砲水とか土石流のことを、この辺では、『山津波』と呼ぶんです」
 やまつなみ。山あいに起きる津波。これもまた三陸を襲った津波同様、恐ろしい自然の姿だ。
 この夏は、各地で集中豪雨の被害が出た。竜巻のような突風も起きた。海水温は秋になっても尋常ではない高さを保っていた。
 地球は20年前とは違う姿を見せつつある。
 これが温暖化による変化なのだろうか。
 人類は、少なからず地球を破壊しながら生きてきた。人類の存在自体が、地球にとっては負担なのだ。それに輪をかけて、成長し続けなければならない社会、経済、国家のかたちが、さらなる負担を強いる。
 以前、テレビで何かの学者が言っていた。今が転機なのかもしれないと。経済活動を変化させ、地球を守る活動を始めないと、地球は確実にダメになる、と。
 社会も経済も、常に成長しなければならないのか。停滞や後退は悪なのか。つまり、この便利になりすぎた社会を後退させる勇気があるかということだ。石器時代とは言わないまでも、何でも簡単に手に入る便利な社会を捨て、たとえば20~30年前くらいの多少不便な生活を選択することで、地球を守るつもりがあるか、気概があるか。それを地球は我々に問うている。
 ま、そんな自然の恐ろしさを目の当たりにし、僕はすっかり釣りへの意欲を失ってしまった。そりゃそうだ。釣りどころじゃない。

 本部へ戻り、出してもらったコーヒーなど飲みながら、ひと休み。これからどうしよう。釣りもできないし、帰るしかないか? 何の気なしにイトウクラフトの作業場をのぞいてみると、ある1本の竹竿が目に留まった。
 竹竿? バンブーロッド?
 正確に言えば、それはまだ竿の状態にはなく、ガイドもリールシートもついていない、さらのブランクだ。だが、これがイトウクラフトの新作で、バンブーロッドが今後発売されるのだとしたら面白い。(写真④)
 誰も見ていないのを確認して、そのブランクを手にしてみる。
 ブランクには、文字が書いてあった。
<Expert Custom BORON/BAMBOO Proto EXC 620LM-B>
 間違いない。イトウクラフトはバンブーにボロンをコンポジットしたロッドを発売するつもりなのだ。
「どうかなされましたか?」
 後ろで、伊藤さんの声がした。
 見つかった! でも、ここは開きなるしかない。
 これはバンブーロッドですね。まだ発表はしていないようですけど、僕にばれちゃいましたよ。発売は来春? 再来年かな?
「何の話でございますか?」
 これ、バンブーロッドのブランクでしょう。見つかってしまっては言い逃れはできませんよ。どの程度仕上がっているんですか? 値段はいくらぐらいで出すんですか? プロトが組みあがったら、僕にも振らせてくださいね。
 僕は立て続けに質問をぶつけた。
「いや、それはバンブーロッドではありませんよ」
 それなら何だと言うんです!
「確かにそれはバンブーのブランクです。でも、今のところロッドを発売する予定はない。アメリカのバンブーロッドメーカーがストックしていた、第二次世界大戦以前のトンキンケーンを10年前に仕入れて、それがそのブランクですが、でも釣り竿じゃない」
 大戦前のトンキンケーン? 気が遠くなるようなマテリアルですねえ。でも、見たところ節はあるし、普通の孟宗竹に見えます……いや、それより、問題はロッドだ。バンブーロッドを作る予定はないというくせに、ブランクはできてるじゃないですか。
「だからこれは、ロッドのブランクではなく、虫取り網のバンブーブランクなんです」
 はあ?

(中編に続く)







「イトウガイドサービス2012夏 後編」 丹律章 
本ヤマメとアブの朝の巻 

2012年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:BOWIE50/ITO.CRAFT

(あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。)



 テントを出ると、空気は少しひんやりとしていた。
 さすが雫石だ。8月半ばでも、早朝の空気には冷涼感がある。
 イトウガイドサービス本部前では、伊藤秀輝さんと吉川勝利課長が僕の起きるのを待っていた。
「おはようございます」
 2人が声を揃えて言う。声が見事に揃っている。いつも思うが、あんたらはマナカナか! そうじゃなければタッチか!
「今日は近くの川から釣りを始めますので、ここで準備を済ませてから行きましょう」
 また声が揃う。まさか、常日頃から声を揃える練習でもしているのだろうか。
 この日は、「ガイド&BBQパックサービス」の2日目だった。前日の午後早くにガイドサービス本部に着き、夜にかけて山の幸や川の幸を堪能し、明けてこの日が釣りというスケジュールだ。
 前夜は、大量のビールと、ジンギスカン、南部短角牛のステーキ、カジカ、ウナギなどを大量に飲み食いし、精神も胃袋も満たされた状態で、僕は林の中に張られたテントで熟睡した。そして、体力も気力も充実した状態で、この朝を迎えたのだった。

 静かな朝だ。空は薄いもやに覆われている。しかしこのもやは太陽が出るとすぐに霧散し、ほどなくセミも鳴きはじめ、あっという間に夏の騒がしい朝に変貌するはずだ。
 僕は、ザックの中からウェーダーとシューズを取り出し、異変に気付く。あれ? このひもちょっとやばいかな。
「どうしました?」吉川課長が言う。
「いや、シューズのひもが切れそうなんです。でも、大丈夫じゃないかな、今日1日くらい……」
「それはいけませんねえ。山の奥で切れたら、まともに歩けませんよ。それが急斜面の途中で、なおかつ、歩きにくいガレ場で、さらに突然50m先にクマが出てきたらどうします?」
「そんな偶然が重なることはないとは思うけれど、何かいい方法がありますか?」
「ございます。少々お待ちください」
 レンタルシューズ、1日3,000円というところだろうか。まあ、それも仕方ないか。吉川課長が言うように、釣りの途中でひもが切れたら最悪だ。
「ちょうど最後の1点が残っていました。現在、日本中の渓流アングラーに大人気で売り切れ続出の、イトウガイドサービス靴ひもでございます」
 手渡された靴ひもを凝視する。そこには、「イトウガイドサービス製 ウェーディングシューズ用・靴ひもBORON」とあった。値段は8,500円。
「あの、これ普通の靴ひもですよね」僕は一応、吉川課長に尋ねてみる。
「いえ、パッケージをよくご覧ください。ウェーディングシューズ用と書いてあるじゃないですか。専用の靴ひもです」
「そうなんですか?」
「そうです。東北の渓流の水温に合わせて柔軟性を設定し、耐水性も高めてあります。耐摩耗性はBORONマテリアルを使用することで、通常の靴ひもの3倍の強度を実現しております」
 ボロン? 本当かねえ。僕には靴屋さんで買ってきた靴ひものパッケージに、パソコンで適当に印刷した紙をペタッと貼り付けた代物にしか見えない。だが、ワイルドターキーのボトルに安物のウイスキーを入れて客に出すぼったくりバーのような強引さもまた、イトウガイドサービスの特徴だ。
 おとなしくその高価な靴ひも(ちょっと安いウェーディングシューズなら1足買えておつりがくる!)を購入し、ひもを取り換えていると、伊藤さんが横に来て言った。
「丹様、カーディナルのスプールのチューニングはお済みですか?」
「スプール? チューニング? いえ、知りませんけど」
「当ガイドサービスでは、カーディナルをお使いの方に対して、スプールのチューニングサービスも行っております。具体的にはスプールエッジのテーパー加工で、これにより飛距離のアップとライントラブルの減少が望めます」
「まじですか! それお願いしたいんですけど、すぐ……は無理ですよねえ」
「いえ、すぐにできますよ。料金は15,000円になります」
 僕はすぐにチューニングを頼んだ。伊藤さんは工房の扉を開け、旋盤にスプールをセットし、スイッチを入れたかと思うと数分でスプールの加工を終えた。
 加工料金15,000円。この料金は妥当か否か。非常に難しい問題だ。
 カーディナル3が発売された当時の定価は18,000円だったという。それに比べればスプールの加工が15,000円というのは馬鹿げた数字だ。
 しかし、ガイドの基本料金10万円に比べると妥当な料金かもしれない。さらに、靴ひもの8,500円に比べるとずいぶん安いような気もする。この辺が、イトウガイドサービスの困ったところだ。金銭感覚がマヒして、スプールの加工料金15,000円や靴ひも8,500円が普通に思えてくるのだ。しかし、それを気にしていてはこのガイドサービスを受けることはできない。
 そうなのだ。イトウガイドサービスとの付き合い方は、2つしかない。いつもの金銭感覚を捨てて高額な出費を受け入れる、観念する。もしくはガイドを頼まない、いっさい近寄らない。どちらかだ。
 なにはともあれ、僕のスプールチューンは終了した。さあ準備万端。ロッドにリールをセットしてウェーダーを履いたら、出発である。
 ランボルギーニの12気筒エンジンを搭載したレンジローバーが林道を進み、釣り場へ到着した。

「渇水しているんです。ヤマメは間違いなくいますが、どれだけミノーへ反応するか、それはやってみないと分かりません」
 伊藤さんはそう言って、僕を最初のポイントに案内した。
 流れの幅は2mほど。しかし、その半分は対岸から垂れ下がるボサに覆われていて、空いている水面は1mしかない。しかも流芯は対岸に寄っているので、魚は間違いなくやぶの中に隠れている。できるだけ魚との距離が近いラインをトレースするには、どれだけボサぎりぎりにキャストできるかが勝負になる。
 1投目、ビビってルアーは目標の2m手前に落ちた。2投目、キャストが右に寄ってしまったので途中で回収。3投目、どんぴしゃの位置にルアーが落ちる。トゥイッチングを開始すると、右のボサの中から黒い影がルアーを追い、食った。
 チェイスした影は見えたのだが、アワセが遅れてしまった。魚は水面で暴れて、フックが外れた。遅れたためにフッキングが十分ではなかったのだ。
「アワセが0.3秒ほど遅かったですね」
「魚は見えたんですけど、体が反応するまでにタイムラグがありますからねえ」
「その0.3秒が大事な0.3秒なんです。そのラグを短縮することができれば、釣果は飛躍的に伸びるんですが」
「……たとえばですね。その0.3秒を何とかする薬とか無いんでしょうか。2,000円くらいなら払いますけど」
 伊藤さんは、僕の言葉を無視して次のポイントへ向かった。
 歩いていると、体にまとわりつく虫が気になり始めた。太陽が上がって、アブが出てきたのだ。この時期の渓流釣りの悩みのひとつはこれだ。しかし僕は久しぶりの渓流釣りだったので忘れていて、何たることか半袖シャツを着てきていた。あたふたしているうちに、アブはどんどん増えてくる。
 僕は、持参の虫よけを全身に大量にスプレーした(持参せずにガイドに頼むと、1秒あたり100円の料金が取られるのだ。持参すればいくらスプレーしても500円の出費で済む)。すると、心なしか減ったような気がしたが、それでも根性のある奴は襲ってくる。
「こんなものもございますが」
 いつの間にか吉川課長が僕の後ろに立っていて、布きれを手に持っていた。
「アームカバーでございます。虫よけにもなりますし、日焼け止めにもなります。丹様の場合、そろそろ肌の老化も進んでおられると思いますので、むやみに日焼けなさらない方がよろしいかと。シミや皮膚病の原因にもなりますし」
 老化とか余計なことはいい! 僕はアームカバーを借りた。1時間1000円だという。
腕は覆うことができたが、手の甲や顔はその限りではない。
「アブ1匹あたり500円になりますが、いかがいたしましょう」
 吉川課長がまたもや背後にいた。手にはハエたたきが握られている。
「それ、エキスパートカスタムのハエたたきですか? 去年ガイドをお願いした時も持ってましたよね」
「いえ、これはあの時のモデルではありません。現在3代目のプロトで、EXC180ULです。昨年の段階では3フィート1インチのロングロッドモデルをテストしていたのですが、ロングロッドでは守備範囲は広いものの、シズクイシクマアブやナンブマダラアブなど動きの速いアブには追従することが困難でした。そこで、シャフトを思い切って短くし、なおかつさらに高弾性のカーボンマテリアルを使用、ボロンの含有量も増加させたことで、トリッキーなアブの飛行にもショートストロークの振りで対応が可能になりました」
「では、僕の釣りの邪魔にならないよう、アブどもをやっつけちゃってください」
「承知しました」と言うやいなや、吉川課長はアブを撃退していく。バックハンドで1匹、振り下ろしながら1匹、アンダーハンドでさらに1匹。
 最近、吉川課長が釣りをしている場面を見ることはないが、アブを叩き落とす腕前は、去年に比べて格段に上達しているようだ。
「アブは私に任せて、丹様は釣りに専念なさってください」
「ところで課長、そのハエたたき、どう見ても100円ショップで売っているもののように見えるんですけど」
「丹様の目は節穴でございますか? これはエキスパートカスタムのシャフトに、わざと安っぽいブルーのペイントを施したスペシャルモデルでございます」
「はあ、そうなんですか」
「昨年の時点では40,000円の価格設定を考えておりましたが、ハエたたきに40,000円はどう考えても高すぎだろうということになりまして、38,000円でご提供できる見込みです」
「それでも十分に高いですけど」
「確実なアブの撃退をお望みなら、100円ショップのハエたたきでは役不足。このハエたたきならアラスカのアブでもカムチャッカのアブでも撃退可能かと存じます」
 何はともあれ、吉川課長のアブ退治のおかげで、釣りに集中できそうだ。

 目の前に大きな淵が現れた。
 早速キャストしようとすると、「ちょっとお待ちください」と伊藤さんが言う。「先ほどのヤマメのルアーへの反応を見たところ、今日はいつもに増してヤマメの警戒心が高くなっているようです。ですので、できるだけタイトに、ライナーでオーバーハングの奥へ入れるようにお願いします」
 はあ。できるだけやってみますけど。
「それと、ミノーは何をお使いでしょうか」
 ミノーは僕のフェイバリット、蝦夷ファーストですけど。それが何か。
「そうですか。ファーストもいいミノーなんですが……」そう言って、伊藤さんがベストのポケットをゴソゴソ探り始めた。
「ご要望のボウイでございます。先日最終プロトが完成いたしまして、これは昨夜仕上がった中の1本でございます。こちらの方がスレたヤマメを攻略するにはよりベターかと存じます」
「うわあ、嬉しいですね」。以前に電話でボウイを使わせてくれと頼んだときは、発売前ということもあって断られたのだが、なんとか都合をつけてくれたようだ。
「ありがとうございます。すいませんねえ」
「はい。ガイドサービスの常連の丹様の要望ということで、工場の方に特別に要求しまして、今日の釣りになんとか間に合った次第です。ですので、今回は定価の3倍の価格でお分けできるかと思っております」
「3倍! それは……えーとですね……あの……もう少し安くなりませんか?」
「はあ? 高いですか?」
「ええ……まあ……。ボウイは3,000円ちょっとすると思うので、3倍ならざっと10,000円ですよね……ミノー1個に」
「……それでは特別に2倍ということでいかがでしょう」
「よし買った!」
 というわけで、僕は最新作のボウイを手に入れた。3倍から2倍にディスカウントしてくれたように思えて3秒ほど感謝したが、よく考えれば結局定価の倍。高い買い物である。だが、これで魚が釣れるなら問題ない。
 そして、第1投目。初めてのミノーにラインのリリースタイミングが狂い、まさかのテンプラキャスト。ミノーは遥か頭上の木の枝を直撃した。やばい! ロッドをあおってもルアーは外れない。定価の倍で買ったミノーがあわや30秒で森の藻屑に……どうしよう。
 吉川課長が、180ULを振り回してアブを撃退しながら、ルアーが引っ掛かった木を見上げる。
「これは困りましたね。ボウイの手持ち在庫はございません。あれが今日お譲りできる最後のボウイなのですが」
 何とか取れませんかね。
「どうでしょう……」
 その時だった。下流からガラガラと河原を何かが移動する音が聞こえた。クマか? いや、エンジン音もする。振り返ると、そこにはパワーショベルが近づいてきていた。運転しているのは伊藤さんだ。
「これを使って、ルアーの回収をしましょう」
 いやいや、あの、ですね。それはありがたいんですけど、パワーショベルの使用料金が僕は気になるわけでして……。10万円とか言われるとちょっと困るんですが。
「ご安心ください。ルアー回収はガイドの仕事。パワーショベルは、ボウイの料金に含まれております」
 ルアーの代金に、重機の使用量が含まれているというのがよく分からないが、とりあえず大事なミノーはどうにかなりそうだ。
 ルアーを回収して次へ進む。目の前に絶好のポイントが現れた。水深は50~70センチくらい、左側から木の枝が垂れ下がっていて、川底にはちょっと大きな石も沈んでいる。
 ボウイをラインに結びなおして、念のため、後方にあるトロにキャストしてみる。また頭上の木の枝に引っ掛けるわけにはいかない。ボウイは、ファーストよりちょっと重量があるからか、思ったより初速が出て、きれいに飛んでいく。何投か試投を繰り返した後、僕は出来るだけ対岸寄りの、流芯に近い筋に狙いを定めてミノーを投げた。
 1投でヤマメが食った。
 グリングリンと暴れて水面に水しぶきが上がる。フッキングは申し分なかったらしく、今度はバラさずにランディングできた。尺がらみのサイズだ。
 ネットに入れて感動。胸ビレに鮮やかなオレンジ色をまとった、きれいなヤマメだ。おそらくは、この川で世代交代を続けてきた、本ヤマメだろう。
「さすがですねえ」
 2人が声を揃えて言う。もう、マナカナはいい!
「いやいや、渇水でシビアなこの時期に、このサイズのヤマメを誘い出すとは、素晴らしい」
「いや、まあ、そういわれると照れるなあ」
「やはり小さい体に秘めた実力があるんですねえ」
「ええ、まあ。釣りは身長じゃないですからねえ」
「キビキビした動きが効果的なのでしょう」
「まあ、僕のトゥイッチングもなかなかのもんでしょ」
「ヒラ打ちアクションがこれまでのミノーより凄いので、この泳ぎにヤマメもイチコロなんでしょう」
「泳ぎ? ああそうか。素晴らしい、実力がある、というのは僕のことではなく、ボウイのことだったんですね」
「いい魚ですねえ」また、2人が声を揃える。
「尺ってとこですね。ちょうど30センチくらいかな」
「いや、残念ながら尺には足りませんね。目算で29.5㎝です」伊藤さんが言う。
「じゃあまあ、四捨五入して尺ってことで」
「いえ、29.5は29.5。29.5センチは30センチではありません」
「ならさ、メジャーあててみてくださいよ。もしかしたら、30センチあるかもしれないじゃん」
 吉川課長がベストからメジャーを出す。ピッタリ29.5センチ。僕はメジャーを受け取り、自分で魚にあててみる。どう図っても29.5センチだった。どういう具合に何度測りなおしても、それは30センチには届かなかった。
「えーと、ものは相談なんですが、ほら、その5ミリは何とかなりませんか。たとえば、3,000円くらい払えば、尺と認めてくれるとか」
「丹様。当イトウガイドサービスでは、魚のサイズをごまかすことはありません」。伊藤さんがきっぱりと言い切る。「それだけは譲れません」。それが彼らのやり方なのだろう。
 靴屋で300円で買ってきた靴ひもに、8,500円の値段を貼り付けることはあっても、20秒の加工に15,000円の料金を徴収しても、ルアーを定価の倍で売りつけることはあっても、魚のサイズはごまかさない。それがイトウガイドサービスの矜持なのだった。
 山を下りて、湧水で冷やしておいたスイカを川につかりながら食べる。空を見上げると、ちぎれ雲がゆっくりと流れていた。トンボが飛んでいる。まだ暑いが、雫石の秋はもうすぐその辺まで来ているらしい。
 この日の釣りも終わりに近づいていた。今回もいい釣りだった。いいヤマメも釣った。
 魚のサイズはごまかさない。そう伊藤さんは言った。
 スイカの料金の50,000円はさすがに高すぎると、僕は思った。















「イトウガイドサービス2012夏 前編」 丹律章 
羊とカジカとウナギの夜の巻

2012年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
wear:夏なので、Tシャツ&短パンという軽装で十分。汗をかいた時の着替えを用意したほうがいい
shoes:サンダル。足の裏が強ければ裸足でもOK
stomach:強力なもの。前夜から食事は控えて、もちろん朝食は摂らずに参戦すること
drag:ウコン系やキャベ2、ソルマックなど必要に応じて摂取するのが望ましい

(あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織は存在しません。)



 しかしまあ、暑い夏だった。
 夏は暑いものと相場は決まっているが、それにしても2012年の夏は暑くて、その暴力的な暑さに毎日文句を言いながら、僕は自分が住む神奈川の夏を過ごしていた。
「いやあ、毎日暑いねえ」「暑くて死にそうだねえ」「嫌になるねえ」。まだ若いのにそう簡単に暑さで死にやしないし、嫌になったところで暑いのに変わりはない。でも、文句の一つも言いたくなるのが夏の暑さだ。
 とはいえ、冷夏なら冷夏で、暑くないのは夏らしくないとか、暑くない夏はクリープを入れないコーヒーだとか、水着にならないグラビアアイドルだとか、グラドルなら森下千里がいいとか、訳のわからない文句を僕らは言うことになっている。
 どのみち満足することを知らないのが、我ら釣り人という生き物。「あと1cmで尺なのに」とか、「メスじゃなくてオスだったら」とか、いつも文句だらけだ。
 その暑い夏、僕はお盆の帰省に合わせてイトウガイドサービスを予約することにした。
 イトウガイドサービスの予約センターに電話を入れる。ちなみにこの電話番号は、イトウクラフトの番号ではなく、ガイドサービス専用の回線だ。
 プルルルル。
「はい、イトウガイドサービスでございます」
 イトウクラフトに電話すると、最初に伊藤さんが電話を取ることはあまりないが、ガイドサービスの番号なら、100%伊藤さんが出ることになっているようだ。
「ガイドの予約をお願いしたいのですが」
「はい、丹様ですね。いつもご利用いただきましてありがとうございます。ガイドの件、承知しました。日にちはいかがいたしましょう」
 僕は8月のお盆前の平日を指定した。
「それで、最近の釣り場の状況はどうですか」
「ずっと雨が降っていないもので、渇水でどこもイマイチな状況ではありますが、魚のいる場所だけはおさえてございますので、ご安心ください」
「それは楽しみです。あと、何か変わったサービスとかないですか」
「ええ、特別にはございませんが」
「たとえば、秋に発売予定の、新作のなんでしたっけ、ボウイでしたっけ? それを特別に使わせてもらえたりはしませんか?」
「他でもない丹様のご依頼ですが、いかんせん、ボウイはまだ最終プロトの段階でして、お客様に用意するのは難しいかと思います」
「そこを何とかなりませんかね?」
 実は僕はこの新作ミノーに興味津々だったのである。釣具店に並ぶ前に購入できないものか、それが無理なら、何とかプロトでも使わせてもらえないか、今回の釣りの狙いの一つはこれだったのだ。
「ボウイは、まだフィールドスタッフにも渡してございません。ですから、丹様の希望でもさすがに難しいのです。あ、それではこういうのはどうでしょう」と、伊藤さんは、別の提案をする。「1泊2日の『ガイド&BBQプラン』というのがご用意できますが、いかがでしょうか。前日の昼過ぎにお迎えに上がり、午後から夜にかけてBBQを楽しんでいただき、翌朝から釣りに出かけるというものでございますが」
 前のりのBBQパーティか。それは楽しそうだ。
「では、それをお願いします」
 僕はそのコースを予約した。当初の目的のひとつであったボウイの件は体よくあしらわれてしまった。

 そんなこんなで、予約した日に待ち合わせ場所で待っていると、伊藤さんが迎えに現れ、すぐさま雫石のパーティ会場へ移動。イトウガイドサービス本部のパーティ会場前で、僕は吉川課長の出迎えを受けたのだった。
 席に案内されると、すぐに生ビールが届いた。ジョッキはカキンカキンに凍え、中身のサッポロは、それが自分の仕事だとばかりにキンキンに冷えている。客のビールの好みを完全に把握しているのもイトウガイドサービスの特徴である。
 炭火の上に乗る鉄板には、まずジンギスカンが投入された。
「新鮮なラム肉でございます。やわらかい羊を厳選いたしました」と、吉川課長が言う。
「厳選? ここら辺の肉屋では、選べるほどラム肉に種類があるんですか?」
「いえ、そういうわけではございませんが」
 見ると、吉川課長のTシャツには、赤い小さなシミがあった。赤……血の色……新鮮な肉……そういえば近くには全国的に有名なKで始まる農場がある……K農場では羊を飼っている……まさか!
「丹様、何かあらぬ想像でもなさっているのですか?」
「いえ、そういうわけでは……新鮮な肉っていうから、いやさ、吉川課長が今しがた羊をあれしたのかなと思って……いや、冗談ですよ……ハハハハ」
「……ま、まさか……」
 吉川課長のこめかみがピクリとひきつった。でも、まさかね。そうだよね。
 ラム肉を平らげたら、牛肉が鉄板に乗った。
「これも新鮮な、南部短角牛でございます。いい牛を見繕ってステーキにさせて頂きました」
 K農場には肉牛もいる。南部短角牛も多分いるだろう。やはり、そのまさかなのか?
「高そうな肉ですねえ。この辺の肉屋さんでは、100gどれくらいするのかなあ」
「ええ、この肉は小売店を通してませんから、一般的な価格は分かりかねますが」
 やっぱりそうか……小売店、つまり肉屋から買ってない。近くにはK農場……。僕は想像する。伊藤さんと吉川課長が夜陰に乗じて農場に忍び込み、動物の小屋に近づく。音もなく忍び込み、ヤマメをだますような手口で動物を誘い出し、羊一頭と牛一頭を運んでくる……相当な重労働だが、彼らならやってできないことはないだろう。
「どうでしょう。おいしゅうございますか」
「は、はい。おいしいです」
「そうですか。喜んでいただけるなら、苦労の甲斐がございました」
「そりゃあ、牛と羊だから大変な苦労ですよねえ。夜中に運んできて解体したんですか?」
「解体? 何の話でございますか? いい肉を手に入れるには、いい卸売業者を探して業者に特別な部位を指定したりと、なかなか大変なのでございます」
「あ、ああ。そうですよね。そうですよね。まさか自分たちで……いや、そうですよね」
 しかし、僕はちらっと見てしまった。
 建物の裏手の駐車場に、家畜運搬車というのだろうか、まるで牛や羊でも運ぶ時に使うような、鉄の柵で覆われた荷台のあるでかいトラックが置かれていたことを……。イトウガイドサービスでもイトウクラフトでも家畜は飼っていない。となると、あれはいったい何に使うのだろう。
 肉を食って腹が落ち着いたところで、鉄板が外され、川魚が並んだ。カジカだ。僕はカジカに目がない。胃袋は満タンのはずなのに、気が付くと僕はカジカの串を取り上げて口に運んでいた。
 美味い! ヤマメをさらに濃厚にした香りと味。絶品である。
 僕は、あまりの幸福感に呆然とし、空を見上げる。緑の木々が天を覆い、その隙間から空の青と雲の白が見えた。高校生が初めて彼女とキスしたときだって、これほどの幸せはないだろう。
「ご満足いただけましたか?」吉川課長が近づいてきた。
「ええ。大満足です。特にカジカなんて、神奈川じゃ無理。やはりここに来ないと食べられないですからねえ」
「そう言っていただけるとは、嬉しい限りでございます。あ、ビールがぬるくなってしまったようですね。新しいのをお持ちしましょう」と、吉川課長が底に5cmほど残ったジョッキをもって姿を消す。
 程よい酔いに任せて目をつぶる。風が木々の間を抜ける音が聞こえる。炭がパチンとはぜる。ヒグラシが鳴いている。
 イトウガイドサービス本部の裏手はすぐ山だ。裏山はそのまま奥羽山脈に続いていて、動物も豊富。キジなどの野鳥はもちろん、カモシカやツキノワグマも、すぐ近くに姿を見せるという。そんな自然が近い、というより自然のど真ん中の環境にいるからこそ、釣りの腕も上がるのだろう。ヤマメの気持ちが分かるなんていうのは、練習をすれば身に着くような性質のものではないのだ。
 ひょっとしたら、伊藤さんと僕との腕の差は、住んでいる環境によるものが大きいのかもしれない。
 裏手の山の方から、何か音が聞こえた。何だろうと耳を澄ます。動物が歩いているような音。ガサガサとやぶをかき分ける音だ。えっ、クマ?
 何か大型の動物が近づいてくる。立ち上がって身構えると、森から姿を現したのは、イトウガイドサービスの森林統括本部長である大和さんだった。森林統括本部とは、山の幸全般を対象としていて、キノコ狩りや山菜取りなどのガイドも行っているイトウガイドサービスの一部門だ。
 大和さんの腰には、ビクがぶら下がっていた。
「丹様がいらっしゃると聞きまして、天然ウナギを捕りに行っておりました。首尾よく大物ウナギの捕獲に成功いたしました」と、大和統括本部長はビクからウナギを出して見せた。ウナギはもちろん川の生物だが、ヤマメやサクラマスと違ってゲームフィッシングではなく漁に近い。だから山を専門とする統括本部長の領域なのだ。
「天然のウナギと養殖ものの違いは、まずは色です。腹がこういう風に黄色っぽいのが天然、養殖は白いんです。そして、顔も上から見て丸みを帯びているのが天然ものですね」
 大和統括本部長は、ウナギをまな板に乗せ、あっという間にさばいてしまった。あとは、1時間ほど待っていれば、かば焼きが出来上がるという寸法だ。
 冷たいビールを飲みながら、かば焼きが出来上がるのを待つ、普段はそれほどたくさん食べる方じゃないのに、ここに来るとやたら食べてしまう。なぜだろう。
 ゆったりとした時間が流れる。奥羽山脈に日が沈み、夕焼けのピンク色がきれい。明日も晴れそうだ。
 かば焼きができた。全く臭みの無い、素晴らしく美味なウナギ。イトウガイドサービスの良さの半分は、もしかすると釣りではなく、食べ物なのかもしれない。いや、多分そうだ。まぶたが重くなってくる。ああ、気持ちがいい。
「丹様、布団の準備が整いました」
 伊藤さんの声で目が覚めた。どうやら居眠りしていたらしい。
「明日も早いですから、お休みになった方がよろしいかと存じます」
 森の入り口に、小さなテントが張ってあった。入り口に、蚊取り線香と、ランプ、そしてさらにもう一杯のビールのジョッキが置いてある。
「でも、動物とか出ませんか。クマとかカモシカとか」
「大丈夫です。この辺のクマは気立てがいいので、襲ったりしません。ちゃんと言い聞かせてありますので」と伊藤さんが言う。
 言い聞かせるってどういうことだ?
「それに、私がテントの前で番をしておりますので」吉川課長が言う。
 まあ、いいか。僕はビールを飲み干して、テントに潜り込んで、すぐに意識を失った。
 夜中、グルルルという獣の声が聞こえたような気がした。
 それが熊だったのか、テントの前にいる吉川課長のいびきだったのかは定かではない。


後編は、イトウクラフト2013年カタログに掲載予定です。













「イトウガイドサービス2011お盆」 丹律章  
祭りサービスの巻 後編

2011年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
wear:雫石とはいえ夏は暑いので、Tシャツ&短パンという軽装で十分
shoes:サンダル
stomach:強力なもの
drag:ウコン系やキャベ2、液キャベなど必要に応じて

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービス、またはイトウ祭りサービスという組織は存在しません。



 山女軒を探していたら、偶然迷い込んでしまったイトウガイドサービスの夏祭り。
 南部地鶏に天然の鮎。ビールはしっかりサッポロ。料理は100点だ。財布の中身のことを心配しなければ、むちゃくちゃ楽しい。
 川ざっこ勝で、鮎を食いながら吉川課長と話をしていたら、うなぎのメニューが目に付いた。

≪うなぎ 天然 ひと串 5,000円≫

 焼き鳥10,000円よりは、雫石の天然うなぎ5,000円の方が良心的だ。
「うなぎください」
 僕がそういうと、「今、捕りに行っておりますので、少々お待ちください」と吉川課長はこたえた。
「現在、雫石川の天然うなぎは、相当珍しい存在でして、なかなか手に入るものではないんですが、そこは我々の組織ですから、ご安心ください。30分ほど前に、うなぎ捕獲の一報が入りましたから、そろそろ到着の時間かと存じます」
 そんな話をしていたら、腰にビクをぶら下げた人が目の前に現れた。頬かむりを外したら、イトウガイドサービスの大和博さんだった。
「これは丹様、しばらくぶりでございます。天然うなぎをご用意しましたので、1時間ほどお待ちください」
 そういって大和さんは、どこからかうなぎ用の包丁を取り出し、うなぎをさばき始めた。目打ちをして三枚におろして、骨は骨せんべいに、身は串を打って七輪の上に乗せる。
「イトウガイドサービスに伝わる、秘伝のたれです」
 そういって、大和さんはハケでうなぎにタレを塗る。蒲焼用の秘伝のタレを持っている釣りのガイドってなんだそりゃ、と思ったが、それこそがイトウガイドサービスである。
 それはともあれ、うなぎの蒲焼は美味だった。臭みは全くなく、これぞ天然魚という美味さ。
「もうひと串ください」
「はいよ」

 そろそろ腹も落ち着いてきた。肉も魚も食べたので、山のものが食べたいな。
 僕はそう思って、焼き鳥を焼く伊藤さんに聞いてみた。
「きのことか、ないですか?」
「きのこ……ですか? まだ8月ですから、1ヶ月以上早いですね」
 昨年の秋にイトウガイドサービスを頼んだ際も、きのこが食べたいと僕がわがままを言った。すると、山のプロである大和さんが、どこからか舞茸を採ってきてくれたのだった。その詳細は「イトウガイドサービス2010年秋 前編」に書いたが、僕はまた、わがままを言いたくなった。しかも昨年は9月半ばだったのに対して、今回はまだ8月半ば。1ヶ月も早い。条件はさらに厳しい。さあ、伊藤さんはどう出るだろう。
「無理ですか? イトウガイドサービスでも無理ですか? きのこ食べたいなあ」
 僕は、やや挑発的に言ってみた。
「イトウガイドサービスに、不可能なことってあるんですかねえ」
 伊藤さんの目がすっと、細くなった。
「いや、ありますよねえ。不可能は不可能。無理ですねえ。いえね、無理ならいいんですよ、無理なら……」
 伊藤さんの目が、さらに細くなった。
「丹様……」
「は、はい」
「もちろん、イトウガイドサービスに不可能の文字はございません。どんなきのこがご希望ですか?」
「えっ、まじで?……そうですねえ……どうせなら、松茸とか、どうでしょう」
「承知いたしました。今しばらく、お時間を頂きます」
 伊藤さんは、ポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ電話を掛け始めた。

 ちょっと離れた場所から、肉の焼ける匂いが漂ってきた。ジンギスカンだ。僕はジンギスカンが大好きなのである。
「ジンギスカンは、一皿いくらですかね」
 電話を終え、焼き鳥屋から焼き肉屋へと転身していた伊藤さんに声を掛けた。
「ジンギスカンは、食べ放題プランとなっております」
「でも、焼き鳥と鮎とうなぎを食べて、今から食べ放題っていう感じでもないんですが」
「残念ながら、ジンギスカンを召し上がりたい場合は、食べ放題の料金を払っていただくしかございません」
 こういう不条理なことをいうのが、イトウガイドサービスである。分かりました。食べ放題でいいです。5万円くらいですか?
「300円になります」
「は? 3万円じゃないの?」
「はい。300円です」
「3,000円でもなくて?」
「ええ。300円でございます」
 この辺の料金設定の不安定さが、僕にはいつになっても理解できない。

 ジンギスカンをたらふく食い、ビールをさらに2杯追加すると、腹がパンパンになった。
 半分ほどに減ったビールをちびちび飲みながら、1,000円/10分の料金が付いた椅子に腰掛け、汗をぬぐう。
 北国岩手、その中でも涼しい部類に入る雫石とはいえ、夏は暑い。時折、林を抜けて風が吹いてくるが、汗を飛ばすほどの強さはない。
 屋台の横で、扇風機が回っていた。あれで涼もう。そう思って近づいてみる。

≪風 1秒 100円≫

 僕は、シャツの胸元から10秒ほど風を受けて、料金を支払った。
 ちょっと離れた場所に、人だかりができていた。近寄ってみると、金魚すくいだ。しかも、プールの中で泳いでいるのはランチュウである。独特の形をした金魚で、他の種類に比べると飼育が難しい。中には数百万円するような個体もいるというから、超高級金魚である。
「やっていかれますか?」
 店の人から声が掛かった。よく見ると、イトウクラフトのフィールドスタッフ、小田秀明さんである。胸に料金札が貼ってある。

≪ランチュウすくい! 1回 2,000円≫

 僕はポイ(すくうための膜の張ったあれ。ポイといいます)を受け取って挑戦するが、ランチュウはでかいし、ポイは普通の厚さのやつだし、なかなかすくえない。
 熱くなって次々やっているうちに、アッという間に5枚のポイが消費された。
「丹様、スペシャルポイもございますが、お使いになりますか?」
 使う使う。こうなったら、ランチュウをゲットするまで撤退できません。
 小田さんは、4枚のポイを渡してくれた。
「4枚同時使用可能でございます。料金は特別価格で1万円になります」
 カップラーメンだって海苔だって洗剤だって、普通、大量購入すればそれだけ単価は安くなるはず。しかし、ここにそんな常識は存在しない。2,000円×4=10,000円なのだ。僕は1万円札を渡して、4つのポイを受け取った。
 そして、見事ランチュウゲット!
「丹様が今おすくいになったランチュウは、そのまま品評会に持っていかれても優勝争いをする魚でございます。見る人が見れば、100万円以上の値は付きますので、慎重にお取り扱いください」
 そういって、小田さんはランチュウを手渡してくれた。慎重にという割に、ランチュウを入れたビニール袋は普通のやつだった。

 ランチュウすくいも終え、さらにビールを飲み続ける。太陽は奥羽山脈の陰に隠れ、周囲は薄暗くなってきた。腹は満たされたが何か口寂しい。腹にたまらないもので、美味しいもの何かないかな。
 そう思ったときに、思い出した。僕が5時間くらい前にオーダーした松茸ってどうなったんだろう。
 僕は伊藤さんに近づいて、それを質問しようとした。
 すると。
「お静かにお願いします」
 伊藤さんは、そういって、空を見上げた。
 何? 雨でも降るの? それとも、鳥でも鳴いた?
 伊藤さんは、空を見上げたまま目をつむり、10秒ほどフリーズした後、僕に告げた。
「丹様、お約束の品が届いたようでございます」
 さらに、30秒ほど待つと、「ドロロロロロ」という音が、奥羽の山に低く響いていた。その音は徐々に大きくなり、ついに森の中から姿を現した。
 スーパーカブだった。しかしそのエンジン音は50ccのものじゃない。どう考えてもフルチューンが施されている。
 カブを運転していた男は、背中のザックから、桐の箱を取り出した。中には立派な松茸が詰まっていた。
「お待たせいたしました」
 ヘルメットの顔は、長野のイトウクラフトのフィールドスタッフ、小沢勇人さんだ。
 聞けば、岩手ではまだ時期が早すぎる松茸だが、長野では出るのが早いらしい。5時間前に伊藤さんから電話を受けた小沢さんは、すぐに山に入って松茸を採り、ドカティの1200CCエンジンを無理やりフレームに押し込んだスーパーカブで、雫石までやってきたらしい。途中で、白バイを3台振り切ったという。
 早速炭火で、松茸が焼かれる。ショウユをひと垂らしして、かぶりつく。松茸の香りが鼻腔いっぱいに広がる。長野―岩手間、約700キロの味がする。
 肉が次々焼かれ、魚が次々にあぶられた。イトウ祭りサービスの夏祭りは、深夜まで続いた。楽しい夜だった。
 ただし、松茸の値段は聞かないで欲しい。松茸の採取と長野→雫石の運搬にかかる人件費、ガソリン代、調理代金。あなたが想像するマックスの料金の、その3倍くらいだろうか。
 あれから僕は、毎日サンマを食べている。もちろんそれほど好きなわけではない。主に、経済的な理由である。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【付記】
『この時は、震災から約5ヶ月が経ち、みんな心に傷を負いながらも、仲間の絆をより一層深めようと雫石に集まりました。そして私達の笑顔や元気な姿が、HPをご覧の方々にとっても少しでも励ましになったらと考え、今回のイトウガイドサービスが出来上がりました。みなさんの心に元気と勇気を届けられたら幸いです』 伊藤秀輝















「イトウガイドサービス2011お盆」 丹律章
祭りサービスの巻 前編

2011年8月
文=丹律章

TACKLE DATA
wear:雫石とはいえ夏は暑いので、Tシャツ&短パンという軽装で十分
shoes:サンダル
stomach:強力なもの
drag:ウコン系やキャベ2、液キャベなど必要に応じて

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービス、またはイトウ祭りサービスという組織は存在しません。



 イトウガイドサービスというのは、岩手県雫石町にある釣りのガイドを行う組織である。その存在や、ガイドサービスの申し込み方などはあまり公にされてはいないが、イトウクラフトのウェブサイトのトップページのある部分をダブルクリックすると、申し込みのページへジャンプするという噂もある。僕は、既に何度か利用しているので、直接申し込める電話番号を知っているが、今ここにそれを書くことは、イトウガイドサービス本部との約束違反になるのでできない。

 今年の夏も、娘を連れて岩手の実家に帰省した。数日間は、親の相手をしたり友人と飲み歩いたりして時間をつぶしたが、すぐにやることがなくなった。家でごろごろしているには暑すぎるし、もしかしてこんな暑さでも釣れる川を知っているかもしれないとイトウガイドサービスに電話してみても、誰も出なかった。
 僕は仕方なく、暑さから逃れて雫石の方に向かうことにした。雫石は盛岡市内より、少しは涼しいはずなのだ。
 川は減水していた。もしかしたらと思ってルアータックルを積んできたが、とても竿を出す気にはならなかった。こんな時に釣りをしても、汗だくになった挙句ボーズで終わるのがオチだ。
 しばらくぶらぶらとしたら、腹が減ってきた。時計を見たら午後1時を回っていた。
 そこで僕は、雫石に山女軒という食堂があるのを思い出した。
 山女軒については以前、「イトウガイドサービス2011正月 注文の少ない料理店の巻」に書いたが、あの宮沢賢治の童話に出てきそうな、一種の奇跡のような食堂をまた訪れたくなったのだ。
 しかし、僕は山女軒までの道を正確に覚えているわけではなかった。自分で車を運転していったわけではなくタクシーで行ったわけだし、あの時は冬で道から見る景色は今とは違うし、帰りは多少酔っ払っていたし。
 というわけで、何となくの見当だけつけて、僕は山へと入り込んで行く道へ車を向けた。
 こっちの方だったかなあと、細い道を30分ほど行ったり来たりしていると、三叉路の曲がった先に、白い動物が見えたような気がした。
「あれ?」と僕は、冬に出会った猟師を思い出した。その猟師はイギリスの兵隊のような服を着て、ぴかぴかする鉄砲を担いで、白熊のような犬を2匹連れて、山女軒から出てきたのだった。
「あの時の、白い犬じゃないかな?」
 僕はそう思って、一旦通り過ぎた三叉路に引き返し、そちらの方へ曲がってみた。白熊のような犬はどこかへ見えなくなっていたが、うっそうとした森の中を細い道をしばらく進むと、広い駐車場のようなスペースへ出た。
 冬に行った、山女軒の駐車場のようにも思える。が、そこに、期待した山女軒はなかった。
 しかし、別のものがあった。
「やきとり秀」と「川ざっこ勝」だ。
 焼き鳥屋と川魚を焼く屋台が2件並んでいて、客で込み合っていた。森に囲まれた広場に、突然ふって沸いたように行列ができていた。店からはいい匂いが漏れてきていた。腹がグーと鳴った。
 僕はその行列に参加することにした。
 30分ほど待つと、ようやく自分の番になった。
「よくお分かりになりましたね」
 焼き鳥を焼いている男が僕にいった。
 なんとそれは、伊藤秀輝さんだった。
「お久しぶりですね」
 隣で川魚を焼いている男がいった。
 吉川勝利課長だった。
「な、何やっているんですか?」
 僕は驚いて2人に聞いた。
「焼き鳥を焼いているんです」
「川魚を焼いているんです」
 そんなことは見りゃ分かる。あんたらの仕事は釣りのガイドで、焼き鳥屋とか川魚屋さんじゃないでしょと、僕は思った。
「ガイド業は夏休みで、今は夏祭りを行っております。運営は、イトウ祭りサービスのスタッフたちでございます」
「やきとり秀」の秀は伊藤秀輝の秀。「川ざっこ勝」の勝は吉川勝利の勝なのだ。
 さらによく見ると、どこかで見たような顔が散見される。
「お飲み物は何にしましょう」
 僕の戸惑いを無視して、伊藤さんは言う。改めてメニューを見ると、僕は再び驚いてしまった。

≪サッポロ生 中ジョッキ 5,000円≫

 と、そこにはあった。5,000円? 間違いじゃないの? ひとケタ違うでしょ!
 その下には、焼き鳥の値段が貼ってあった。

≪ジャンボ焼き鳥 ひと串 10,000円≫
 さらに、
≪南部かしわ鶏 ひと串 10,500円≫

 こちらはふたケタ違う! 焼き鳥が1本10,000円という狂気の数字。歌舞伎町のぼったくりバーか、ここは!
 でも……ここで僕は思いなおした、この店を、夏祭りと思うから高いのであって、イトウガイドサービスと思えば、これは普通の価格設定なのだ。
 1日のガイド料金が10万円からで、山の中での殺虫剤はひと吹き50円、ルアーの現場価格は定価の倍、ミノーのトゥルーチューンは1,000円から、移動中の車のエアコンは28度設定で1時間300円、1度下げるごとに100円追加。この支離滅裂な価格設定を焼き鳥に置き換えると、1本10,000円でもおかしくはない。

≪かじか 1尾 2,000円≫

 これも、イトウガイドサービス価格を前提にすると普通だ。

≪雫石鮎 天然 1尾 10,200円≫

 雫石の鮎は全国の品評会で1位になったことがあるから、妥当な値段かもしれない。いや、冷静に考えれば、高級料亭だってもっと安いだろうから、妥当なはずはないのだけれど、頭をイトウガイドサービスの客に切り替えれば、これは普通の値段なのだ。
 僕は生ビールをもらって、焼き鳥にかぶりつき、雫石の天然鮎を賞味する。25,000円なり。金銭感覚は既に麻痺している。
 もちろん、この屋台もイトウガイドサービス同様カード決裁はできないので、現金払い。周囲でも万札が飛び交っている。異様な夏祭りである。
 僕は伊藤さんに向かって叫んだ。
「ビール、もう1杯ください!」

後編に続く












「イトウガイドサービス2010秋 後編」 丹律章
超豪華キャンピングカーコース 秋ヤマメの巻

2010年9月21日
秋田の渓流×丹律章
文=丹律章
写真=丹律章、伊藤秀輝

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:Emishi 65S 1st & 50S 1st & 50S 1st Type-Ⅱ/ITO.CRAFT

『あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。写真は合成ではないし、釣り当日に釣った魚を掲載していますが、イトウガイドサービスという組織は存在しません』




 イトウガイドサービスは、岩手の雫石を拠点に釣りのガイドをする団体である。岩手、秋田の釣り場については驚くほど詳しく、ガイドを頼めば確実に魚が濃い川、支流、エリアに案内してくれる。
 最近は魚よりも人の数の方が多いような川が多く、たとえ数がそれなりにいてもすれている魚がほとんどなので、釣りは簡単ではない。なので僕はこれまで、何度もこのガイドサービスのお世話になっている。関東から遠征し短い日程で釣りをする中で結果を出すには、ガイドを頼むのが一番なのだ。
 このイトウガイドサービス、ガイドとしての腕は一流だが、料金も一流である。
 通常、日本でも海外でも、1日のガイド料金というのは2名の客にガイドが一人ついて4~5万円が相場だと思う。ところがイトウガイドサービスは、基本料金が10万円と相場の倍だ。なおかつちょっといい釣り場に案内してくれるAコースのオプションが1万円、さらに珍しく魚影の濃い釣り場に行くのはSコースでプラス3万円となる。
 今回僕は、2日間連続でSコースのガイドを依頼した。初日は尺がらみのヤマメを2匹ばらし、キャッチできたのはさほどいいサイズではなかったが、宴会用に天然マイタケを調達してくれ、それはそれで素晴らしい夜となった。
 今回の物語はガイド2日目の朝から始まる。

 朝、5時。イトウガイドサービス本部前には、キャンピングカーが鎮座していた。
「本日は、イトウガイドサービス、キャンピングカーSコースをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。スペシャルコースですので、本日は課長の吉川と2人でガイドをさせていただきます」
 伊藤さんが丁寧な口調で言う。
 僕は呆然としながら、排気量5.6リッターのエンジンをボンネットの下に隠した、ダッジ社製キャンパーを見つめる。徐々に昨夜の伊藤さんとの会話を思い出してきた。
『お客様、明日ですが、キャンピングカースペシャルコースを選択することも可能ですが、いかがいたしますか? 柔らかなソファーにゆったりと座っていただき、釣り場までの移動が快適に過ごせると思います』
 そんな提案を受けたのだった。二日酔いの泥沼の奥深くから少しずつ記憶の断片が蘇ってくる。
『もし突然の雨が降ってきても、キャンピングカーの中は広うございますので、止むまでの間バックギャモンなどを楽しんでもらうことも可能かと存じます』
 そして僕は、その提案に対して、キャンピングカー? いいですねえ。と応えたような気がする。その結果が、これなのだ。
 酔っ払って思考能力が低下しているときに、オプションコースの提案をするのは、イトウガイドサービスのいつもの手だ。もちろん、僕はそのオプション料金について聞いてはいない。
 ポンッと伊藤さんの背後で音がした。
 吉川課長が現れて言う。
「早速ウェルカムドリンクを用意させていただきました。ご乗車いただいて、ごゆるりとお過ごしください」
 後部座席のソファーに座ると、シャンパングラスが手渡され、泡の入った白い液体が注がれる。もう一度言うが、午前5時である。
 液体の正体はドンペリだ。
 安売り酒屋で購入しても1万円は下らないシャンパンだ。正規価格は倍、飲み屋ならさらに倍、銀座ならさらに倍という代物である。
「ご安心ください。ウェルカムドリンクは、5万円のキャンピングカーコース追加料金に含まれておりますので」
 立ちくらみがした。しかし、すぐにそんなことからは立ち直ってみせる。イトウガイドサービスを利用するなら、こういうオプションは料金の発生は当然なのである。川に行くときには水に濡れることを想定してウェーダーを履くように、イトウガイドサービスを利用するときには意外なオプション料金の発生を想定して、財布の紐はフルオープンに、頭はバカにしておかなければならないのである。
 頭部、および胃腸方面には、まだ十分にアルコールが残留していたが、僕はグラスに注がれたシャンパンを飲み干した。こうなったら徹底的に楽しんでやるのである。

 川は増水していた。濁りのきつい支流もある。前日の雨が影響していた。
「川の状況としては良くはないですが、何とかします。釣りができる支流をお探しいたします。まずは、麗しき日本の渓流コースからご案内いたしましょう」
 何? 麗しき? 何が麗しいの?
「昨夜ご依頼いただいた、秋のスペシャルコースでございますが……」
 ああ。そういえば昨夜、そんなこともいったような気がする。
『本日は、尺がらみの魚を2匹ばらしてしまいましたが、お楽しみいただけましたでしょうか』
 そうですね。(いいサイズを2つばらしてしまったことをわざわざ思い出させてくれなくても結構ですけど)楽しんでます。ここに来るのは、釣りだけが目的ではないですから。マイタケを食べれることもそうですし、懐かしい、いわゆる旧き良き日本的な、昭和的ともいうんでしょうか、そういう風景の中で釣りができるというのも、神奈川に住む僕には貴重な体験ですから。
『用意させていただきます』
 えっ、何を用意するの? と瞬間的に思ったが、そんなことはすぐに忘れてしまった。そのコースが夜のうちに準備されたのだろう。
 キャンピングカーが細い未舗装路をしずしずと(何せ、車幅が広いので慎重に進まないと脱輪してしまいかねない)進んで、橋のたもとのちょっと広いスペースに止まった。
 そこには、まさに旧き良き日本の田舎の風景が、展開されていた。
「現在、雫石から半径50km以内で、最も旧き良き日本らしい場所を選定しました。先の林の奥に渓流が流れております」
 水が抜かれた田んぼに稲が干されている。何かをいぶすような囲炉裏の匂いと、新鮮な森の匂いが混ざって漂っている。僕らはその中を通って、釣り場へ向かう。まさに、旧き良き日本。秋の田舎の風景。気分がいい。
 農業も合理化が進み、便利な機械乾燥が主流となっている今、ここのように、味が良いといわれる天日乾燥にこだわっている農家は少ない。そんな農家と、ヤマメがいる渓流をセットでとなると、なかなか貴重な場所であろう。
「オプション料金は2万円でございます」
 そうですか。いつも通り高いですね。
「刈った稲の乾燥作業を今の時間までに終わらせてもらった農家への謝礼、あぜ道の通行許可、駐車など含めての値段ですので、適正価格かと」
 イトウガイドサービスの意思決定、指示が農家まで及んでいるとなると、高いとは思わないが、果たしてホントだろうか。
 残念ながら、あぜ道の先の川には魚が少なかった。オプション料金は、純粋に旧き良き風景の料金となった。

「濁りの入りにくい渓流にご案内します」
 そういって伊藤さんが向かった渓流は、広葉樹に覆われていた。
 カーブの深みにミノーを投げる。偶然良い所に落ちて魚が姿を現した。しかし、もうちょっとのところで食いつかなかった。次のポイントでもすぐにミノーに反応があったが、ばらしてしまった。なかなか魚の反応がいいぞ。
 しかし、伊藤さんは渋い顔をしている。
「ちょっと投げてみていいですか?」
 伊藤さんがさっき僕がばらした淵へミノーを入れる。すぐにヒット。23センチくらいのイワナだった。
「やっぱり……ダメですね」
 えっ、何がダメなの? こんなに魚の反応がいいのに。
「釣れるのはイワナです。ここは、ヤマメが釣れる日はヤマメだけ、イワナの日はイワナだけという川なんです。今日はイワナの日です。ダメです」
 いやいや、今どきこんなに反応がいい川はないですからやりましょうよ。
「イワナですから……お客様には是非、いいヤマメを釣っていただきたいと思っております」
 僕はイワナでも構わないんですけど。
「そちらが良くても、私たちが良くありません。移動です」
 えー、客は僕なんですけど。
「移動します」
 伊藤さんが断固とした口調で告げる。ソフトクリームとか(イトウガイドサービス2010夏参照)、天然マイタケ(同2010秋前編参照)など、無謀な要望にも応えてくれるのに、イワナでもいいという客の意見には全く耳を貸さない。客が釣りたい魚ではなく、ガイドが釣らせたい魚を釣らせる。それがイトウガイドサービスなのである。
 僕は、しぶしぶ移動に応じた(応じなくても移動させられるのは明白なのだけれど)。

 移動した先の川は、やや濁りが入っていた。限界まで垂れ込めた雲から雨が落ちてきた。増水気味の渓流は、流れが強くて歩きにくかった。30分ほど遡行すると、大きな淵が見えた。
「ここは、秋にヤマメがたまる場所です。本日一番のポイントです。この増水なのでイワナが出ることもありますけど、普段はヤマメの方が多いはずです」
 伊藤さんが言う。そして付け加えた。
「ロクゴーは持ってますか?」
 えっ? 蝦夷65Sですか? いやあ、持ってませんね。渓流なので5cmだけでいいと思って。
「普通ならもちろん5cmでいいのですが、濁りがあるので、ちょっと目立たせた方がベターかと思います」
 伊藤さんは自分のルアーボックスをごそごそ探って、65Sを探し出した。そして、僕の顔を覗き込む。
「どうします?」
 使うかどうか聞いているのである。もちろん無料ではない。現場売りは定価の2倍がこのイトウガイドサービスの通常価格だ。
 もちろん使わせてもらいます。
「これは、先週私が自分で塗った、秋ヤマメ用のスペシャルグリーンカラーです。市販品にはありません。特別カラーの塗装価格は30円です」
 特別カラー料金が1000円というならそれはそれで納得できるが、30円ならおまけしてくれりゃいいのに。そう思ったが口に出さない。言えば絶対「それなら1000円で」というに違いないから。
 淵の右端。流れ込みの横を狙ってキャストを始める。
 僕の後ろで伊藤さんと吉川課長が見守っている。にらみつけているのかもしれない。釣れよ、と。
 10投目か15投目か、僕の竿先に反応があった。
 アワせる。
 グイっとティップが引き込まれる。
 ラインが水面を切る。
 3回ほど、淵の底を目指す逃走の闘争をいなし、水面に魚が浮く。赤い。鈍いオレンジ色が見えた。
 水面を転がるようにしてノースバックに収まったのは、秋の色で着飾ったヤマメだった。30cmあるネットの内寸にはちょっと足りない28cm。ビッグサイズではないが、十分にいいヤマメ。狙っていた35cmには遠く及ばないけれど、僕にとっては満足できる色と顔つき。今回の旅に意味を持たせてくれる秋のヤマメだ。
「さすがですねえ」
 伊藤さんと吉川課長が声を揃える。タッチじゃないんだから。ハモんなくてもいい!
「この状況で赤いヤマメとは素晴らしい」とまた声を揃える。そのうち、幽体離脱とか見せてくれるかも。
「タン様の技術には感服いたします」
 もしかして、お世辞にも料金が発生するのだろうか。
 山々も秋の色に染まり始めている。ヤマメも秋の色に染まっていた。















「イトウガイドサービス2011正月」 丹律章
注文の少ない料理店の巻

写真=丹律章、伊藤秀輝
文=丹律章

TACKLE DATA
wear:防寒はしっかり。しっかりした作りのアンダーウェア、ダウンなどのハイロフトジャケットは必携
shoes:スニーカーは不可。短靴では雪の中を歩けない。最低でもくるぶしの隠れるブーツが必要。ソレルが最適と思われる。クロックスは自殺行為
gloves:ラインを結びかえることは無いので、指の出ていない普通の手袋がよい
cap:毛糸やフリースの帽子がベスト。覆う部分が多い目出し帽も悪くないが、そのスタイルで銀行に行くと警備員に捕まえられるので注意

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。イトウガイドサービスという組織も、山女軒というレストランも存在しません。モデルとなった店に迷惑がかかるかもしれませんので、探さないように。



 イトウガイドサービスというのは、岩手県雫石町にある釣りのガイドを行う組織である。渓流釣りが解禁前のこの時期、当然ガイド業も休業となる。
 釣りができないのは分かっていたが、盛岡の実家に帰省した際、なんとなくイトウガイドサービス本部へ電話してみた。もしかすると、新しいシーズンに向けての釣り場の予測とか、激安ガイドキャンペーンの情報などが得られるかもしれないと思ったからだ。
 すると、思いがけない誘いを受けた。
「食事にご招待いたします。いつも当ガイドサービスをご利用いただいている方への、ほんのお礼でございます」
 いかがでしょうか、と伊藤さんがいうから、僕は喜んで、と伝えて、スケジュールを決めた。
 食事当日の夕方、伊藤さんが例のランボルギーニの12気筒エンジンを乗せたレンジローバーで迎えに来た。こんなサイズあるの? って思ってしまうようなぶっといスタッドレスタイヤを履いている。アクセルを踏み込むたびにものすごいエンジン音が響き渡る。相変わらず派手な車だ。しかし、夏とは違い、ちょっとアクセルを踏むとすぐにホイルスピンを起こし、パワーが路面に伝わっていないのがおしい。
「お久しぶりですね。今日はおいしい雫石の料理をご馳走しますので、たっぷりと食べて、飲んで、楽しんでいってください」

 ガイドサービス本部でタクシーに乗り換え、山の方へ向かう。
 雪道を10分ほど走ったとこで、タクシーが止まった。
「ここです」と伊藤さんが言う。除雪の行き届いた広い駐車場には、車が1台も停まっていなかった。車の外に出ると、建物のドアから、2人の若い紳士が出てきたところだった。2人はイギリスの兵隊のような服を着て、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を2匹連れていた。
 僕が2人が肩から下げている鉄砲に驚くと、伊藤さんは「なあに、猟師ですよ。鹿とか、それがいなければ山鳥とかを撃つんでしょう」と平気な顔をしている。この土地では、鉄砲を担いだ人間は珍しくないのだろうか。
 駐車場に車が停まっていなかったことが証明するとおり、2人の紳士は犬を連れて闇の中へ消えていった。
 宮沢賢治の童話に、似たような場面があったような気がしたが、気のせいかもしれない。

 入り口に立つと、看板があった。

 WILD TROUT HOUSE
 山女軒

 山女軒かあ。なかなかしゃれた名前だ。しかも宮沢賢治の方は山猫軒だったから、違う店だ。安心した。ないとは思うが、服を脱がされたり、クリームを塗られたりして、最後に食べられたのではたまらない。
 ドアを開けて中に入ると、そこは普通の店だった。
 普通……。レストランというにはこじゃれた雰囲気ではなく、居酒屋と呼ぶべき喧騒感もなく、そう、いうなれば、田舎の食堂。まさに食堂という風情だ。
 客は少ない。カウンターで2人連れがテレビを見ながらビールを飲んでいる。でもまあ、雫石のはずれにある料理店の平日の夜なんて、こんなもんかもしれない。
 テーブルについて生ビールを注文してから、店のメニューを見渡す。壁にずらりとメニューが貼られている。ざっと50種。意外な多さだ。客は4人だというのに。
 ここは、メニューの多い料理店なのである。

 メニューは多いが、特に変わった品はない。よく言えばオーソドックス、悪く言えば特色がないメニューといえる。
 生ビールが着いた。
 運んできた店主らしき人に、煮込みと焼き鳥など、ごく普通の料理を注文する。
 店主はひとことはいと返事をして、調理場に消えた。どうやら、店はひとりでやりくりしているらしい。
 ここは、口数と従業員の少ない料理店なのである。

 届いた生ビールをごくりと飲む。
 生ビールを飲むにしては、ちょっと室内温度が低いことに気がついた。
 僕も伊藤さんも、他のお客さんも、ジャンパーを着たままである。
 着たままであるばかりでなく、ファスナーも閉めたままである。
 近くにあった、温風ヒーターを見てみた。
 設定温度20度、現在の室内温度18度とある。18度! そりゃ、寒いわけだ。
 ここは、気温の低い料理店なのである。

 焼き鳥が出てきた。ねぎ間、ハツ、砂肝、ナンコツ。皿に和がらしが添えてある。
「普通は七味といくところですが、からしもありですね」
 伊藤さんが言う。食べてみると、からしで焼き鳥も悪くない。
 北海道では、焼き鳥を頼むと豚肉が出てくるらしいが、その場合、からしがついてくることが多いという。確かに豚の角煮はからしで食うし。
「ねぎ間もっと食おうかな」伊藤さんが言って、追加注文をする。
 渓流の話とかヤマメの話とか、世間話で盛り上がる。
 20分後、追加のねぎ間が届いた。
 皿にはわさびが添えてある。先ほどはからし、今度はわさび。
 ここは注文の不安定な料理店なのである。

 チーズというメニューが目に入った。すかさず注文してみる。
 ビストロ的な西洋居酒屋などでは、カマンベールチーズにブリー、スモークチーズ、チェダー、シェーブルチーズなど最低でも4種類くらいの盛り合わせというのが普通だろう。
 15分後。チーズが運ばれてきた。
 ししゃもでも乗せたらベストマッチな皿に盛られていたのは、プロセスチーズが10切れ。それだけ。カットするだけなのに15分。
 ここは注文の遅い料理店なのである。
 ぎざぎざのナイフでカットしたのが、店主のこだわりだ。

 伊藤さんが声を潜めて言う。
「あそこ見てみてください」
 目で指し示す先には、本日のおすすめが書かれている黒板があった。
 1番最初に、ブリのしゃぶしゃぶと書いてある。
 あれ?
「そうでしょう。店に入ってきたときは、ブリのお刺身だったんです」
 確かに、黒板消しで消して、書き直したような跡がある。
「昨日仕入れて、鮮度が落ちてきたので、刺身からしゃぶしゃぶに変えたんでしょうね」
 ここは、注文の臨機応変な料理店なのである。

 ふと気がつくと、最初に注文した煮込みが届いていない。
「普通は温めなおすだけですがねえ」
 伊藤さんも困惑気味だ。もしかしたら、内臓を処理している途中かもしれない。新鮮なものを提供しようという、店のこだわりなのかも。
 さらに15分ほど待ってみる。店主は忙しく立ち動いているが、煮込みが出てくる気配はない。
 恐る恐る聞いてみる。あの、煮込みはまだでしょうか。
 あっ! と店主は言って、謝った。やはり忘れていたらしい。
 ここは、注文を忘れる料理店なのである。

 2時間ほどで切り上げることにした。
 会計はおどろくほど安かった。
 ここは、勘定の少ない料理店なのである。
 腰を上げながら温風ヒーターをのぞくと、室内気温は19度にあがっていた。
 ここは、いつまでの気温の低い料理店なのである。
 店の外に出ると、雪が舞っている。宮沢賢治の童話の場合は、気がつくと店はけむりのように消えうせ、僕と伊藤さんは雪原に取り残されているところだが、後ろを振り返っても店はまだあった。
 僕らは呼んであったタクシーに乗って、ガイドサービス本部に戻る。念のためタクシーのリアウィンドウから振り向くと、店はまだそこにあった。
 あの童話に出てくる店ではない。でも、宮沢賢治が愛し、通い込んだ雫石の山の中なら、注文の多い料理店はどこかにあるかもしれないと僕は思った。







「イトウガイドサービス2010秋 前編」 丹律章 


2010年9月20日、秋田の渓流
写真=丹律章、伊藤秀輝
文=丹律章

※あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。合成写真は使っていないし、魚のサイズはごまかしてないし、実際に釣り当日に釣った魚を掲載していますが、イトウガイドサービスという組織は存在しません。


 今回は、2日連続のガイドサービスを利用してみることにした。
 偶然タイミングよく連休が取れたのもひとつの理由だが、夏にこのガイドを利用して、35cmのヤマメを釣ったことで気を良くしたというのも、もうひとつの理由である。
 禁漁前に、もう一度いい思いをしときたい。願わくば、同じようなサイズのヤマメを。もちろんさらにひと回り大きくても一向に構わない。それが真っ赤に色づいた秋ヤマメであっても全く差し支えない。さらにそいつがオスのハナ曲がりであったとしても苦しゅうない。
 おりしも釣り初日の9月20日は、秋田の渓流最終日。僕らは、当然ながら秋田の渓流を目指していた。フルスロットルで仙岩トンネルに向かいつつ、伊藤さんは滑るテールにカウンターをあてる。車内にはモーツァルト。岩手と秋田を分ける山々は、霧に包まれている。
「本日も、イトウガイドサービスをご利用いただきまして、まことにありがとうございます」
 僕は2日間とも、Sコースというスペシャルコースを依頼した。Sコースは、イトウガイドサービスが提供する最高ランクのコースで、人の多い有名河川ではなく、あまり人に知られておらず釣り人が少ない支流や、プレッシャーが低く魚が多い細流などに案内してもらえる。それゆえ、基本料金の10万円に加えて、3万のオプショナル料金が発生する。1日13万円、掛ける2日。26万円。
 正常な頭で考えると異常な料金だが、イトウガイドサービスを利用するときには正常な思考回路は邪魔になる。清水の舞台に飛び降りるような気持ちで支払いをするのではなく、イトウガイドサービスに予約の電話をする時点で、清水の舞台から飛び降りていなければならないのである。
 イトウガイドサービスの利用料金はこれだけで終わらない。ラインを結んだり、虫が多い時期にキンチョールをスプレーしたり、暑い夏にはエアコンの温度を下げるのにもいちいち料金が発生する。油断していると、それらも膨大な額になる。
 たとえば、秋田へ向かう車中のモーツァルトは、片道分で1000円である。出発時に、AKBとモー娘と、どちらがいいか聞かれたので、僕は迷わずオプションのモーツァルトを頼んだのだ。モーツァルト以外にも選択肢はあって、さだまさしは1500円、五木ひろしは2000円だという。この辺はいつも通りの良く分からない料金設定である。さらに伊藤さんがリクエスト曲を歌うというオプションもあり、これは1曲5000円らしいが、今のところそれをオーダーした人はいないらしい。
 ちなみに、イトウガイドサービスではクレジットカードは使えない。取り扱いは現金のみなので、注意。10万円以上の現金をベストのポケットに入れて釣りをするのも、いかがなものかとは思うのだが。
 朝晩は涼しくなってきたが、日中は30度近くまで気温が上がる。北東北も今年の夏は異常な暑さだ。
 まだ暑いですねえ。霧の向こうに強烈な太陽光線を感じながら、伊藤さんに話しかける。
「そうなんです。秋だというのにね」
 秋といえばキノコですよね。キノコ食いたいなあ。
 何気なくそうつぶやいたら、伊藤さんが一瞬固まった。
「キ……ノコで……ございますか?」
 うん、そう。マツタケとかシメジとか出てるんじゃないんですか。
「いやあ、実は……」
 伊藤さんが困った顔をするのを、僕はこのガイドサービスを利用するようになって初めて見た。
 普段の岩手なら、お盆を過ぎると一気に秋の気配が漂い始める。朝晩の冷え込みが始まり、山沿いでは気温が一桁に下がることも珍しくない。しかし今年は、夏の暑さが9月まで続いたせいで、山の季節も遅れているというのだ。
「キノコがねえ、まだ出ていないんですよ。残念ながら」
 僕はちょっと無理を言ってみたくなった。でもさ、何とかなるんじゃないですか?
「ところがですねえ。こればっかりはどうにもなりません。渓流を歩いていても、ボリすら出てないんですから話にならないんです」
 さらに意地悪を言ってみる。あれ、イトウガイドサービスに、不可能の文字はありましたっけ?
 そういうと、伊藤さんのこめかみがピクリと反応した。
「……何ですと」
 伊藤さんが怖い目でこちらをにらむ。あの、危ないから前向いてください。
「ふ、不可能ならいいんですけど……」
 伊藤さんの目が、細くなった。
「もちろん、我がガイドサービスに、不可能などという文字はございません。あるわけ無いじゃないですか」
 伊藤さんの目が据わっている。
 そして、路肩に車を停め外に出ると、どこかへ電話を掛け始めた。

 予想に反して最初に訪れたのは、支流が流れ込む本流のポイントだった。遠くにアユ師がちらほら見える。
「本流から支流に上るヤマメをチェックしましょう。秋が遅れているので、そろそろかもしれません。出ればでかいです。しかも彼らは群れで遡上しますから、1匹だけってことはありえません。35cmの連続ヒットだってありえます」
 しかし、残念ながら群れの遡上はタイミングが合わなかったらしく、ルアーにヒットする魚はいなかった。僕らは次に支流へ向かった。最近では珍しい、人の少ない流れだ。
 底石がごろごろする深みから、竿先に反応が伝わった。さほどロッドは派手に曲がらなかったが、25cmあるかないかのヤマメがネットに収まる。
 ちょっと釣り上ったが、対岸に先行者の車を見つけたので、その先は諦めて、下流を探ってみることにする。そして、僕は失敗をやらかしてしまうのである。
 小さな堰堤の流れ出し。ちょっとした深みにミノーを放り込み、3mほどリトリーブしたあたりでゴンと魚が乗った。しかし決定的にアワセが遅れ、すぐにフックが外れてしまった。
 その15m下流。2mほどの水深があるスポットで1度魚がミノーを追い、次のキャストで首尾よく食いつかせたものの、これもばらし。
 2つとも、いいサイズだった。どちらも尺がらみのサイズで、後のほうがちょっとでかかった。もしかすると前回のような35cmかも。うーん、確かに魚がいるところには連れてきてもらっているんだけどなあ。
「次に行きましょう」
 伊藤さんが見切りをつけて、さらに山奥へ入っていく。
「この辺は、クマが結構いるので気をつけてください。ツキノワグマですからそれほど心配はいりませんけどね」
 そりゃ、秋田にはヒグマはいないだろうけどさ、僕はツキノワグマだって十分に怖いんですけど。
「そうでございますか。もし出た場合は、後ろを向いて逃げ出さないようにお願いします。クマは逃げると追いかけますから。まあ、私がいるから大丈夫だとは思いますが」
 守ってくれるんでしょうか。
「もちろんです。そのためのガイドです」
 ああ良かった。
「シッ、シッって追い払って差し上げます」
 シッ、シッだけですか。
「ダメですか?」
 ダメですダメです。
「クマが近づいて来たら、木の枝を振り回して追い払うというのもあります」
 木の枝で、クマが逃げていくんですか?
「ええ。クマも人間が怖いですから。ただ、枝を払って、棒を作るのに5分ぐらいかかりますので、それまでクマが近づいてこなければいいんですけど……」
 ダメじゃないですか……。目の前にクマが現れたらどうするんですか。
「まあ、念のためにクマスプレーを持ち歩いておりますけどね」
 そう! それを待っていたんです。それを聞いてちょっと安心しました。
「ですが、クマスプレーは、噴射1秒当たり5000円になります。必要なときはおっしゃってください。1秒とか、2秒とか。指示に応じてスプレーしますので」
 いやいや、クマが出たら、僕にそんな余裕ないですから。1秒5000円は払いますから、クマが危険な距離に近寄ったら迷わずスプレーしてくださいよ。僕に断る必要ないから、そちらの判断で、シューっとやっちゃってくださいね。
 そんなことを言いながら川を歩いていると、伊藤さんがいきなり立ち止まって、山の斜面を見上げた。遠くでガサガサと音がする。何? ク、クマ? ホントに出るの?
 薮の中を何者かが歩く音がする。ガサガサ、ガサガサ。音は確かに僕にも聞こえるのだが、その方向を見ても何も見えない。熊笹の斜面が広がるだけだ。
 ガサガサ、ガサガサ。確かに何かいる。熊笹の中を移動している。やっぱり、ク……マ……?
「大和係長か?」
 伊藤さんが叫ぶ。何? 係長って何?
「おう、オレだ」
 笹薮から姿を現したのは、イトウガイドサービスのメンバー、大和博さんだった。薮の中で見えないのもそのはず。彼は全身迷彩色の服を着て、熊笹の斜面を下りてきたのである。
「で、どうだ」
「やっと見つけた」
 何、何のこと? クマでもいたの?
 大和係長が背負いかごから取り出したのは、立派なマイタケであった。味ではマツタケに勝るという天然のマイタケを、秋が遅い山で見つけてきたのだ。

 この大和係長は、釣り雑誌にもたびたび登場する人物だが、実は山の達人でもある。春は山菜、秋はキノコ。何かと山に入って、トラウト以外の収穫にも精を出している。
 いろいろな逸話を持っている大和係長だが、ひとつ例として「ヤマブドウの話」を紹介しようと思う。
 昔のことだ。10年とか、それくらい前。雫石のある町道沿いに立派なヤマブドウの木があって、大和係長はそれに以前から目をつけていた。しかし、近くに民家も多く、往来の激しい町道沿いなので、木に登ってそれを収穫するにはひと目がありすぎた。
 秋になってブドウも熟しただろうそんな矢先、雫石に雨が降った。これ幸いと、彼は出かけることにしたのである。雨の日にわざわざ出かける人は少なかろう。今日がチャンスだ、と。
 それでも目立たぬよう、彼は黒い雨ガッパを着て、黒い長靴に黒いタオルを頭に巻いて、その木に登りはじめたのだった。
 ブドウは、予想通りの大量だった。彼はニカニカしながら、枝から枝へと移動しつつヤマブドウをつんでいった。
 不幸なことに、その町道の先には観光施設があった。そして残念なことに、その日は日曜だった。
 観光バスが止まったのだという。
 そして、バスガイドの声が、大和係長にも聞こえたという。
「皆様ご覧ください。木の上に、一頭のクマが登って、ヤマブドウを食べております。雫石はクマの多い土地ですけれど、こんな間近でクマを見れるチャンスは、めったにございません」
 観光バスの窓が開いて、アーとかオーとか声が上がった。クマだクマだと興奮した声も聞こえた。ストロボが何度も発光した。雨の日に真っ黒い衣装で木に登っていたら、普通それを人だとは思わない。
 木の上で大和係長は動けなくなった。クマの真似をして、ガルルルと、うなり声をあげたとかあげなかったとか。
 そんな逸話を持つ大和係長が、マイタケを背負って、山から下りてきた。
 クマのように山を歩くが、クマではない。ヤマブドウも採るが、マイタケも採る。
 聞けば、僕からの無理難題なリクエストを受けて、伊藤さんは大和係長を山に向かわせたのである。そして、見事、秋が遅れている山の中で、彼はマイタケを探し当てた。
 イトウガイドサービスに、不可能という文字が無いことを、大和係長は証明してみせた。その日、それ以上魚は出なかった。だけど、僕は満足だった。
 マイタケの天ぷらと、マイタケ汁は、尺ヤマメにも勝る味がした。マイタケオプション料金は、5万円だった。


※翌日の釣りに関する「イトウガイドサービス2010秋 後編」は、2011年初春に発行する、イトウクラフトカタログに掲載予定です。ご期待ください。
















「イトウガイドサービス2010夏」 丹律章  
2010年8月9日、秋田の渓流
写真=丹律章、伊藤秀輝
文=丹律章

TACKLE DATA
rod:Expert Custom EXC510PUL/ITO.CRAFT
reel:Cardinal 3/ABU
line:Super Trout Advance VEP 5Lb/VARIVAS
lure:Emishi 50S 1st & 1st Type-Ⅱ/ITO.CRAFT


(あらかじめお断りしておきます。この物語はフィクションです。写真は合成ではないし、釣り当日に釣った魚を掲載していますが、イトウガイドサービスという組織は存在しません。こんなぼったくりバーのようなガイドがいたら、それはそれで面白いけれどね)


 イトウガイドサービスを利用し始めて4年目になる。
 これまで岩手と秋田の川を、このガイドサービスを利用して歩いてきた。いい魚も釣ったし、釣果がイマイチだった日もある。
 今年も、お盆前に帰省し、イトウガイドサービスを頼むことにした。料金は確かに高い、でも、確実に魚のいる流れに立たせてくれる。それは保障する。関東から遠く離れた北東北の川とはいえ、盛岡市のルアー人口は相当のもので、情報も無しに川に入れば、ボウズになる可能性は低くない。フィッシングプレッシャーの高い川が多い中で、いい場所に連れて行ってくれるのは、確かにありがたいサービスなのである。

 約束の4時に、イトウガイドサービス本部に到着した。
 本部前の駐車場では、代表の伊藤秀輝さんと、同じ組織のメンバーである吉川勝利さんが待っていた。
「おはようございます。毎度、イトウガイドサービスをご利用いただきまして、ありがとうございます」と、伊藤さんと吉川さんが声を揃えて言う。
 マナカナじゃないんだから、そんなハモって言わなくてもいいと思うんですが。それに、僕は今日、2人のガイドを頼んだ覚えはありませんけど。
「ええ。それは承知しております。今回タン様がオーダーなさったのはガイド1名のSコースでございます。ただ、今回は課長の吉川も同行させていただき、彼の部長昇進テストを行わせていただきたいと思います」
 吉川さんが課長であることを知ったのも初めてなら、イトウガイドサービスに部長課長という役職があるのも初めて知った。イトウガイドサービスには、代表の伊藤さん以下、何人のガイドが所属しているのかよく知らないけど、現在課長の吉川さんは、部長への昇進を狙っているらしい。
「邪魔にならないようにいたしますので、ご了承ください」
 イトウガイドサービスは、標準料金が10万円と普通の釣りのガイド料金の2倍程度する。しかも、今回頼んだSコースは追加料金が3万円と超高額なのである。その上ガイドが2名になると料金は「さらに倍!」と、クイズダービーの最終問題のように跳ね上がってしまう。気が弱い人なら、その場で失神してしまうだろう。
 しかし今回は異例のことで、釣り自体は、2人のガイドを伴って行うのと変わりはないが、料金はガイド1人の通常価格であるという。僕をサポートするガイドが1人増えるだけ。僕にしてみれば断る理由はない。部長昇進ですか。吉川課長がんばってね。
 雑談をしながら、お土産を手渡す。僕が今住んでいる神奈川県の「湘南せんべい」である。客がガイドにお土産を持参する必要はないのだが、このことで多少なりともイメージを良くしておけば、1日の釣りが快適に過ごせるかもしれない。もしかすると、オプショナルコースを多少値引きしてくれるかもしれない。このガイドサービスは、言葉遣いは丁寧だが、やることはえげつないのである。
「タン様、オーダーいただいておりましたネットが出来上がりました」
 ああ、忘れていた。もう忘れてしまうほど大昔に頼んでいたネットがやっと出来上がったのだ。最新のノースバックである。さすがの仕上がり。僕は、丁重に押し戴く。
 客とガイドの立場が、しばしば逆転してしまうのが、このガイドサービスでもある。

 最初のポイントに着いた。
 釣り支度をはじめる。ふと、忘れ物に気がついた。ウェーダーの腰ベルトである。
 しまった。ベルト忘れました。
「そうですか。あつらえましょうか?」と、伊藤さんがいう。
「皮製のベルトのレンタル料金は1日3000円になります。えっ、ちょと高いですか? それなら、川原のアシをよったものも用意できます。1日500円です。もちろんこれから作業しますので10分ほどお時間をいただきます。ですが、誤って川に流されたときの強度は保障できません」
 やばいなあ。どう考えても命のことを考えたら皮だよなあ。
「タンさん、後ろにぶら下がっている黒いのは何ですか?」
 吉川課長が言った。
 えっ、どれ? あ、あった。これ、ベルトです。見つかった。パタゴニアのウェーダーは、腰の後ろにベルトループがあって、ベルトはそこにぶら下がっていたのだった。
 ああ良かった良かった。3000円申し込む前でよかった。
 準備が整い川に立つと、伊藤さんが川原にヤマカガシを見つけた。
 伊藤さんが吉川課長に目配せする。すると、吉川課長が僕にヤマカガシの姿をちゃんと見せようと、捕獲しようとしはじめた。いや、いいって。そんな気持ち悪いの見なくていいから。
 幸か不幸か、ヤマカガシは逃げ切ったようだ。部長昇進試験を兼ねていると、サービス精神もさらに旺盛になるらしい。ちょっと困ったことだ。
「このエリアは、なぜか腹オレのカラーが効果的です。理由は分かりませんが、データではそうなっております」と伊藤さんが言う。
 僕は、アユカラーのファーストを結んでいた。しかし、そう言われて腹オレにしない手はない。しかも今回は、来る前に好きなファーストを大量に仕入れてきている。もちろん腹オレもある。
 以前は現場でオススメカラーを指定され、持っていなかったので現地購入したこともある。普通、直接購入すると少し安くなりそうなもんだが、イトウガイドサービスは違う。何と、釣具店で買う定価の、倍の値段をふんだくられるのである。そんな経験をしたので、今回は現場購入の必要がないように、あらかじめ買ってきたのだ。
 結んであったアユカラーをラインカッターで切ると、ルアーが手元から地面に滑り落ちた。とりあえずそれは放っておいて、腹オレを結んでから、落としたアユカラーを探す。あれっ、無い!
「どうなさいました?」吉川課長が近づいてきた。
 いやあ、ルアーを落としたんだけど、見当たらないんです。動いてないから、間違いなくここなんですけど。
「お探ししましょう。もちろん、このサービスはガイド料に含まれております」
 あー、良かった。ガイド料金の中に、何が含まれていて何が含まれていないのか、それは謎だ。これまで、きちんと教えてもらったことも無いし。
 だから、ルアー探しは1分100円ですといわれても不思議は無いのだ。
 しばらく探すが、アユカラーのルアーは見つからない。おかしいなあと立ち上がったとき、伊藤さんが言った。「ベストに何かぶら下がってますが」
 えっ、どこ? ベストの左側のポケットに、探していたルアーが引っかかっていた。ウェーダーベルトといいルアーといい、何か調子の悪い出だしである。

 まず狙ったのは、対岸にテトラが入っている場所。もちろん対岸に流芯があって、底石も入っている。僕はファーストをフルキャストし、深みからヤマメの反応を探る。もしかしたらサクラマスさえいてもおかしくはないポイントなのだが、芳しい反応はない。
 セミの声が雑木林に響いている。遠くには真夏の入道雲がもくもく湧いている。対岸の土手道を女子高生が自転車で行き過ぎる。のどかな景色だ。釣りに来る理由のひとつはこういう景色を見たいからである。これだけで十分とは言わないが、肩がすっと軽くなる気がする。
 反応なし。いない。肩が軽くなるのも良いけど、正直言えば、肩に力が入るヤマメのファイトの方も楽しみたい。
「おかしいですねえ」隣で見守っていた吉川課長が言う。
「ちょっと試してみても良いですか?」
 どうぞと言うと、吉川課長はルアーを対岸に向けて弾く。ライナーで飛んだルアーは、僕より3m向こう、テトラぎりぎりに落ちた。
 すぐに反応があった。25センチくらいのヤマメだ。
「いましたね」
 はいはい。分かりました。技術の差ですね。直接下手ですねとは言わないが、ニヤニヤしながらテクニックの差を見せ付けるのが、このガイドサービスの特徴でもある。

 その場所はあきらめて、支流に入ることにする。
 しかし移動した支流は、2、3日前に人が入ったのか、ヤマメの反応がすこぶる悪かった。僕には見えないのだが、いい場所にルアーが入ると、ほんの少しヤマメが反応するのだそうだ。50センチくらいルアーを追うが、食いつきはしないと、伊藤さんが僕の隣で言う。「あれは相当すれてますね」
 既に日は高く、気温は30度を超えているだろう。夏は暑いものだが、ここまで暑くなくてもいい。25度くらいが理想なんだけど。
「残念ながら、北東北の温度管理までは行っておりません」
 いやあ、冗談ですって。
「それでは、別の支流にでも行きましょうか」
 魚も釣れないし、暑くて汗だくだし、冷たいものでも食べたいね。こんなときに、アイスクリームでもあればなあ。
「アイス……でございますか?」
 いやあ、これも冗談ですよ。こんな山奥でアイスクリームなんてね。
「用意いたします」
 えっ?
「15分ほどお待ちください」
 伊藤さんが携帯電話でどこかに電話をすると、5分ほどして林道脇に車が止まった。伊藤さんと吉川課長が近づいて、何かを受け取る。クーラーボックスだ。
 中には、ドライアイスで冷やされたソフトクリームのセットが入っていた。
 伊藤さんが、ボールに入ったアイスクリームをこねて、コーンに乗せ、ソフトクリームを製作する。僕が木陰で休んでいると、吉川課長が対岸までデリバリーしてくれる。
「1個3000円のところ、タン様は常連のお客様でございますので、2980円に値引きさせていただきます。特別でございます。そのへんをご承知おきを」
 たった20円で勿体つけるなら、値引きなぞしてくれなくてもいいけどね。
 ソフトクリームの味は格別であった。苦しゅうない。山奥の渓流でソフトクリーム。これぞ、イトウガイドサービスの底力である。このサービスの奥深さが、リピーターをつかむのである。
 噂では、オバマ大統領や、プロゴルファーのタイガー・ウッズなども、イトウガイドサービスの常連だという。それも本当かもしれない。

 ソフトクリームを食べ終え別のポイントへ移動する。車をとめた場所から500mほど上流に、いい淵があると伊藤さんが言う。ざぶざぶと流れを漕いで、上流を目指す。
 水深は3mほどありそうだった。でかい魚が潜んでいても不思議ではない。手前の岩盤に流れがぶつかっていて、対岸側に浅瀬に続くカケアガリがある。この辺が怪しい。
 水深があるのでファーストのタイプⅡにチェンジして、キャスト&トゥイッチをする。3投目だったろうか、ミノーの後ろにグレーの影がゆらりと見えた。S字軌道を描きながら追尾している。でかいぞ。ハンドルを回すスピードを落として、トゥイッチングを細かくしてみた。食った瞬間は見えなかったが、予期していたのでアワセはさほど遅れなかった。
 ヤマメは淵の深いところで銀色の明滅を見せ付け、ラインを体に巻きつけ、最後には水面を割って50センチほどジャンプした。
「ばらすな」「まだ体力残してるぞ」「そのままこらえて」「浮いてくるまで待って」伊藤さんの声が次々に飛ぶ。
 やっとヤマメが水面に浮き、朝に受け取った真新しいネットの中に納まる。納めてみると、思ったより大きかった。ネットの枠の30センチを遥かにオーバーしている。
「さんじゅう……ご、だな」一目見て伊藤さんが言う。メジャーを当ててみると、本当に35センチだった。
 35センチのメスヤマメは、10数年前に岩手内陸の稗貫川で釣った、33.5センチを超す、僕のレコードとなった。

 この魚で僕は満ち足りた。
 まだ日が高いが、祝杯のビールでも飲みたくなってきた。
「夜は、焼肉主体のパーティーがございますが」
 タイミングよく伊藤さんが言う。
「カルビ、ラム、ホルモンなどを用意してございます。時間無制限の飲み放題食べ放題で2000円となっております」
 安い。異常に安い。いまどき、1時間半の食べ物別の飲み放題でも2000円はする。ベルトのレンタルが3000円で、川で食べるソフトクリームも3000円で、食べ放題飲み放題が2000円。この辺がイトウガイドサービスの料金体系の、不思議なところだ。
 行きます。飲みます。参加します。
「その他に特別召し上がりたいものなど、ございますでしょうか」
 そうですねえ。魚も食べたいなあ。前に食べたカジカなんてありますか?
「ストックはございません。でも、何とかしましょう。イトウガイドサービスの辞書に不可能という文字はございません」
 伊藤さんは5分ほど車を走らせ、支流に入ったところで車をとめた。リアゲートから三角網を取り出し、僕に渡す。
 えっ、これから捕るんですか?
 適当な石の下流に網を置き、石をひっくり返す。同時に足でごそごそと網に追い込む。カジカは簡単に捕まった。10分ほどで数匹のカジカを捕まえ、カジカ捕りは終了。1人1匹か2匹食べられれば、それでいいのだ。
 カジカ捕りのオプション価格は2000円だった。焼肉ビール食べ放題飲み放題と同じ値段なんですけど。
「では、もう少し飲み放題を高くしましょうか?」
 いや、そういう意味じゃないんです。大丈夫です。OKです。何も問題はありません。

 ソフトクリーム、カジカ、35センチのスーパーヤマメ。この日の釣りは、僕にとって完璧な1日となった。これが、イトウガイドサービスを利用し続ける理由だ。また機会を見つけて、僕はこのガイドサービスを利用するだろう。いい釣りを期待しつつ。
 今回のような35センチという幸運はそうそう訪れないだろうが、それほどまでに大きいヤマメが釣れなくても十分に楽しい。もちろん、35センチを超えるヤマメの可能性もゼロではないわけだし。
 ちなみに、吉川課長の部長昇進試験は、残念ながら不合格だったそうだ。理由は、最初に入ったポイントで、客である僕のことよりも、土手を行く女子高生に気をとられていたこと。釣りが上手いだけでは、部長ガイドにはなれないのだ。
 吉川課長、次の昇進試験はがんばってね。















「イトウガイドサービス2009夏」 丹律章  
2009年8月8日、岩手県・秋田県
写真=丹律章、伊藤秀輝
文=丹律章

タックルデータ
ロッド:エキスパートカスタムEXC510PUL/イトウクラフト
リール:カーディナル3/アブ
ライン:スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド/バリバス
ルアー:蝦夷50Sファースト・タイプⅡ、蝦夷50Sファースト/イトウクラフト


(あらかじめ明記しておく。この物語はフィクションである。毎回、それをしつこく書いているのだが、まだ理解していない人もいるらしい。だから念のため、文頭に、さらにしつこく書く。イトウガイドサービスなるサービスは、この世に存在しない)


「イトウガイドサービスです。お迎えにあがりました」
 電話の向こうで声がした。しかし、それは予想していた伊藤秀輝さんの声ではなかった。僕はちょっと混乱した。
 8月8日、午前6時のことだ。僕は釣りの準備を整え、実家でイトウガイドサービスの迎えの車を待っていた。そして、6時丁度に僕の携帯電話がなった。僕は伊藤さんだと思って、電話をしてきた相手の表示を見ずに通話ボタンを押した。
 すると、例の声が聞こえてきたのだ。
「イトウガイドサービスです。お迎えにあがりました」と。
 聞き覚えはあった。5秒ほど考える。分かった。吉川勝利だ。
 あれ、何で吉川さんがいるの?
「イトウガイドサービスですから」
 玄関を出ると、ワゴン車が家の前に滑り込んできた。運転席に伊藤さん、助手席には吉川さんがいる。
「おはようございます。本日は、精鋭2名で丹様をガイドさせていただきます」
 そうですか。それで料金は?
「もちろん人件費が2倍掛かりますから、ガイド料も倍額になっております」
 吉川さんもイトウガイドサービスのメンバーである。2名の渓流ルアーのスペシャリストをガイドに釣りをするのはやぶさかではないが、料金はやぶさかである。だいいち2名でのガイドなど、僕は頼んでいない。でしょ?
「いえ、お客様のご依頼になった、季節限定メニューの『ファーストタイプⅡコース』は、2名でのガイドが基本となっておりますので……」
 僕は1ヶ月ほど前に、インターネットでイトウガイドサービスを申し込んだ。イトウクラフトのウェブサイト内の隠しボタンをダブルクリックし、出てきた画面にパスワードを打ち込むとジャンプするイトウガイドサービスのトップページには、この秋に発売予定の「蝦夷50Sファースト・タイプⅡ」を使っての釣りが載っていた。人数と季節限定スペシャルガイドメニューで、僕は喜び勇んでそれを申し込んだのだった。ガイドが2名とは思わなかったが、おそらく、虫眼鏡でも使わないと見えないような小さな文字で、2名のガイドと高額な料金が書いてあったのだろう。
「それともキャンセルなさいますか?」
 念のためその場合の料金を聞いてみる。
「当日キャンセルですと、通常は100%のキャンセル料を頂くところですが、丹様の場合、うちのガイドサービスの常連でございますので、95%で結構でございます」
 僕はあきらめた。えーい、倍でも4倍でも払ってやらあ! 早く釣り場へ案内せい!
 とはいえ、イトウガイドサービスは、最も安いスタンダードコースで10万円からの設定。ガイド2名でその倍。それに、発売前のファースト・タイプⅡを使えるという特別料金が上乗せになる。あーあ。総額はいくらになることやら。僕は考えるのをやめた。

 僕らを乗せた車は、ガイドサービス本部に立ち寄り、タックル類と今回使わせてもらえる発売前の最終プロト、ファースト・タイプⅡを積み込み、釣り場を目指す。
 着いたのは、2つの川の合流点だった。大きな川に左岸側から水量の少ない川が流れ込んでいる。早速タックルをセットし、水量の多い本流側へ向かおうとすると、伊藤さんが言った。
「支流の流れの緩やかなところに投げてください。それでも水深は1.5mほどありますから、ファースト・タイプⅡがベストチョイスでございます」
 そういって、伊藤さんは僕にファースト・タイプⅡを手渡してくれた。色はITS。見やすくて好きな色である。
「アイ調整がしっかりできていないと泳ぎに影響が出ますが、トゥルーチューンはご自分でなさいますか?」
 もちろん、オプショナル料金が発生する。それでも作業がちょっと面倒くさかったので、頼むことにした。いくらですか?
「私どもにご依頼なさるのが賢明かと思います。アイ調整をして初めて、ミノーは実力を発揮しますから。私どものアイチューンは、0.1ミリ単位のものですのでご安心ください。通常使用には全く問題がないAチューンは1個1000円、どんな激流でもバランスを崩さないSチューンなら1500円でございます」
 僕はSチューンを頼んだ。もはや金銭感覚は麻痺していた。そんなことを考えていると、このガイドサービスを受けることは不可能なのだ。
 僕の好きなファースト。そのヘビーシンキングモデルのファースト・タイプⅡ。投げてみると、文句無しのできである。飛ぶ。泳ぐ。ヒラ打ちの派手さとロッドアクションに追従するレスポンスのよさ。完璧。
 その完璧さを証明するように、5投目にバイトがあった。しかし、痛恨のばらし。アワセが遅かったのか、フックがゲイプまで刺さりきる前に魚は流れの中に逃亡した。
 しかし、その数投後にまたもやバイト。今度はフッキングも上手くいった。足元まで寄せてくると、忘れ物に気がついた。ランディングネットだ。実家に忘れてきた!
 川原はない。やばい。すると、隣で見ていた吉川さんがざぶざぶと流れに入った。
「掬いますか?」
 早く掬って。
 吉川さんがヤマメを掬って言う。
「2000円になります」
 やっぱり。
 ヤマメは28cmあった。尺には足りないが、関東からの遠征シロウトには十分なサイズである。
 そのヤマメを持って記念撮影。吉川さんと並んで、伊藤さんがシャッターを押す。ひと押し500円らしい。僕のカメラですけどね。しかも撮影に失敗しても、ひと押し500円はかわらない。そこは納得いかないが、証拠写真は欲しいので数枚頼む。
 撮影中に、手が滑って魚が逃げた。しかしすぐに逃亡することなく、底石の下に逃げ込んだらしい。
「捕まえますか? ちょっと料金はかさみますけど」
 試しに頼んでみた。すると2人は袖をまくり上げ、まくり上げたその袖を水に濡らしながら捕獲作業を始めた。
 やばい。この一所懸命さは、相当の料金をふんだくられそうだ。そう思ったが、魚は再び捕まえられることはなかった。良かったのだろうか、それとも残念だったのだろうか。

 魚をリリースして、さらに釣り上る。ファースト・タイプⅡをぎらぎらさせながら、瀬を釣り上っていく。
 魚の反応は悪くなかった。多少スレ気味ではあるが、それなりにルアーに反応した。小さな魚がテールフックをくわえ、腹のフックが後頭部に擦れ掛かりした。ローリングしたヤマメがラインを体に巻きつけ、フックにも絡みまくる。
 こんなときは、再びガイドの出番である。隣で状況を見ている吉川さんに、魚を渡す。ガイドがプライヤーを使って、丁寧にラインとフックと魚を分離する。手がくさくならなくて快適。
 しかしもちろん、これも有料である。ラインの絡み具合の複雑さによって、ひと外し500円から1000円という料金設定である。
 ガイドは、常にお客さんである僕の近くにいる。たいていは、伊藤さんか吉川さんかどちらかが、僕の利き腕の反対側にいて、もう1人はちょっと離れたところから、全体を見渡している。ガイドはロッドを持っているが、ルアーを投げることはほとんどない。なぜなら魚はお客さんである僕にプライオリティがあるからだ。例外は、僕が探りつくしてノーバイトだった場合に、本当に魚がいないか確認する場合である。そうやってもう無理だろうと思ったポイントから魚を出されると相当ショックではある。
 ロッドを携帯しているのはもうひとつ理由があって、ピンポイントレンタルのためである。僕のルアーに反応があったけど、食いつかなかったようなとき、別のルアーが結んであるガイドのロッドを使うことができる。そのためにガイドは、客と別のルアー、別のカラーを常に結んでいる。もちろんこれもオプションで、1キャスト500円である。

 川から川への移動途中、ドライブインでソフトクリームの看板を見つけた。僕が「おっ!」と声を上げるのと、伊藤さんがハンドルを切るのは同時だった。
 車を停車させ、伊藤さんが後部座席の僕を振り返る。
「ソフトクリームは、バニラ、チョコ、ミックスのうち、どれになさいますか?」
 バニラですね。ソフトはバニラと決まってます。
「了解しました。ソフトクリームはガイド料金に含まれてますのでご安心ください」
 おっ、良心的じゃないですか。とはいっても、これは、300円と価格が決まっているソフトクリームで暴利をむさぼることはできないため、これをガイド料金に含むことで、少しでも印象を良くしようというイトウガイドサービスの作戦に違いない。
 ソフトクリームより、フック外しをただにするべきだと僕は思ったが、それは口に出さないでおいた。急にソフトクリームはただですけど、車までのデリバリー料が1000円ですといい始めかねないからね。
 ソフトクリームを食べ、それからも川を何箇所か巡ったが、取り立てていい魚は釣れなかった。しばらくの間、人が入っていない区間では魚の反応がいいが、フィッシングプレッシャーが強い場所では魚がなかなか出ない。いないのか、すれているだけなのか。
 これからの釣りは、魚とのだまし合いより、他の釣り人との競合をいかにして避けるか、が最重要課題となってくるのではないか。そういう意味でも、経験豊かなこのガイドたちの情報は重要なのである。
 釣りを終えて、本部へ戻る。本部脇ではBBQの準備が進んでいた。
「今日はこれから、釣り仲間たちとの親睦会があるんです。参加なさいますか? サッポロの生ビールを20リットル用意しましたけど……」
 するする。参加する。
 気になるその生ビールの値段は、銀座で飲む生ビールの倍以上したが、それ以上に味が美味かったので、それも良しとしよう。












「イトウガイドサービス2009春」 丹律章 
2009年5月27日、岩手と秋田の川
写真=丹律章、伊藤秀輝
文=丹律章

タックルデータ
ロッド:エキスパートカスタムEXC510PUL/イトウクラフト
リール:カーディナル3/アブ
ライン:スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド/バリバス
ルアー:蝦夷50Sファーストモデル、初期型蝦夷50S/イトウクラフト



 4歳になる娘が、おばあちゃんに会いたいといった。
 仕事は全く無いわけではなかった。しかし、スケジュール帳にまばらに点在する仕事を、前後の日にちにぎゅうぎゅうに押し込めば、数日間の空白を作り出すことは可能だった。
 その辺が自営業のいいところである。
 もちろん、娘の顔をジジババに見せるためだけに、前後の過密スケジュールを作り出すわけではない。それを口実にジジババに娘を預け、僕は渓流釣りに行きたかったのである。その意味では、おあつらえ向きな娘の発言だったともいえる。偉いぞ。
 僕の実家は盛岡にある。盛岡は雫石町の隣だ。雫石町には伊藤さんがいる。この非の打ち所の無い三段論法によって、僕の釣りは決定した。
 早速、イトウガイドサービスに電話をする。
「もしもし、イトウガイドサービスですか?」
 電話の向こうからは、「そうだ」「その日ならガイドはあいている」「料金は高い」「魚はいるが、釣れる保証はない」というような意味の南部弁が聞こえた。
 僕は、同じ南部弁でガイドサービスの予約をして、電話を切った。既に尺ヤマメを釣ったような気分になっていた。
(このウェブサイトを見ていただいている方ならお分かりのこととは思いますが、このガイドサービスに関する文章はフィクションです。ところどころ事実もありますし、使用写真は確かに実在したものであり合成やCGによるものではありませんが、物語については100%本当ではありません。もちろん、イトウガイドサービスなる組織は存在しません)

 朝早く起きるのが苦手な僕の要望で、集合は6時だった。
「お客様、本日はイトウガイドサービスのスペシャルSコースを予約いただきまして、ありがとうございます。本日は常連のお客様への特別サービスとして、スペシャルカーでの釣り場への送迎を行います」
 そういって伊藤さんが指差した先には、釣り場への往復に最適なスペシャルカーが鎮座していた。
 レンジローバーのプラットフォームに、ランボルギーニの12気筒エンジンを載せ、ダイムラーの天然皮革シートを装着した特別仕様で、もちろん世界に1台しかない、イトウガイドサービス特注であるらしい。
 僕は、皮のシートに深く身を沈め、ボーズのスピーカーから流れるシューベルトの「弦楽四重奏」を聴きながら、釣り場へ向かった。苦しゅうない。
 イトウガイドサービスはフィールドに詳しく、連れて行ってくれる川には渓流魚があふれているが、その分料金が高い。1日のガイド料金はスタンダードコースで10万円。今回僕がオーダーした、スペシャルSコースは3万円増である。もちろん、スペシャルコースを選んだ方が、人にはさらに知られていない、うぶなヤマメがうようよいる川へ案内してくれるのだ。
 しかし掛かるのはその料金ばかりではない。その時々で、オプションが設定されていて、そのオプションをその都度追加していくと、最後にはとんでもない額になるから気をつけたほうがいい。本当に気をつけた方がいい。支払えなかった場合の取り立ては厳しいらしい。
 しかし、今回のスペシャルカーでの送迎に限っては、全く無料のサービスだというから得した気分である。後が怖いが。

 イトウガイドサービスのミュージックアドバイザーが選曲したというこのCDは、シューベルトの「弦楽四重奏」で静かに始まり、徐々に気持ちが高揚するような曲の構成になっていた。そして、エドワード・エルガーの「威風堂々」が終わったとき、丁度川についた。聞けば、川までの時間に応じて選曲されているらしい。最後が「威風堂々」というのは、なかなかのセンスだ。イングランドサッカーの応援ソングでもあるこの曲は、確かにやるぞ、という気分にさせてくれる。
「この川では、蝦夷のファーストモデルが最適でございます」
 タックルの準備をしていると、伊藤さんが言う。
 そうですか。大丈夫。僕は、初期型のストックを持ってきてますから。初期型蝦夷マニアなんです、実は。
「初期型とファーストは、型は同じでありますが、細部が違っておりまして、はっきり申し上げて別のミノーといっても過言ではありません」
 げっ。マジっすか。
 確かに、初期型の復刻とも言えるファーストが発売になったのは知っていた。しかし、僕が住む海べりの町では、ファーストが手に入らないのだ。ルアーマンは全てソルト野郎で、シーバス用だのヒラメ用だの青物用ジグだのばかりが釣具店の棚を占めている。渓流用ミノーなんてほとんどないのだ。だから、僕は手持ちの初期型をワレットに詰めて持ってきたのだが、これでは役不足らしい。なんてこった。
「もちろん、初期型で釣れないことはありませんが、ファーストの方がベターかと。お望みなら、現場売りもございますが」
 伊藤さんが言う。これが怖いのだ。
「通常現場売りは定価の2倍と決まっておりますが、お客様は当ガイドサービスの常連でございますので、1.7倍でよろしゅうございます」
 丁寧な口調で言っているが、要は定価よりも高いけど買うのか? と言っているのである。買わないのは勝手だが、それで釣れなくてもオレ知らんよ、と言っているのである。さあどうする、と言っているのである。
 僕は5個購入した。車の横だから定価の1.7倍ですんでいるが、これが川に下りた後だと、3倍以上に跳ね上がることを、僕は経験から知っている。
 だが、午前中に回った渓流の釣果はイマイチだった。
「釣れませんね。魚いないのかな」と僕が言うと、伊藤さんはにやっと笑って自分のロッドを振った。2投目でヤマメが釣れた。僕の後から。簡単に。
「いますよ」
 はいはい。どうせ、僕の腕が悪いんです。
 さらに釣り上る。ヤマメがぽつぽつ出始めた。しかし、型は20センチくらいで、皆サイズが揃っている。体色も似ている。小学生の入学式みたいだ。同じ黄色い帽子を被って、身体より大きいランドセル背負って。同じ時期に放流したヤマメなのだろうか。

 太陽が高く上がりきって、腕時計を見ると12時を廻っていた。腹が減ったぞ。
「昼食は、手打ち蕎麦でよろしいでしょうか」と伊藤さんが言う。
 いい、いい。全然文句はない。僕は蕎麦大好きだ。こういう暑い日は、つるっと蕎麦を食べるのは理想に近い。ついでにビールがあればさらに文句はない。
「それではしばらくお待ちください。うちが特別に契約している近くの蕎麦打ち職人に、蕎麦を打たせますので」
 そういって、伊藤さんは林道に僕を残し、車で立ち去った。しばらくの間、川を見ながら麦茶を飲んでいると、伊藤さんが戻ってきた。
 手には、蕎麦らしき麺が入ったプラスチックの丼を持っていた。
「それは……」
「打ちたての蕎麦でございます。ゆでたてを奥羽山脈の湧き水でキリリと冷やしてありますので、冷たいままお召し上がりください」
 蕎麦は打ちたてというより、コンビニの買いたてのような味がした。
 奥羽山脈の水で冷やしたというより、コンビニの冷蔵庫で冷やしたもののような気がした。
 伊藤さんのシャツの胸ポケットから、コンビニのレシートのようなものが見えていたが、それは見間違えだったかもしれない。
 だが、蕎麦はまずくなかった。
 山の中で食べれば、コンビニの蕎麦だって美味いはずだ。もちろん、打ちたてのざる蕎麦の方が美味いに決まっているけれど。

 午後からは、別の谷に移動した。
 狭い林道が、山奥に延びている。ランボルギーニのエンジンが、ブロロロという低いエンジン音を谷にこだまさせながら、車体を上へ上へとぐいぐい引き上げていく。
 林道がちょっと広くなったところに、強引にノーズを突っ込み、右側の車体で藪をなぎ倒すようにして、車を停止させる。おいおい、強引過ぎませんか?
 伊藤さんがキーをひねると、ランボルギーニの12気筒エンジンの音に代わって、鳥の合唱が聞こえてきた。
「昨夜から藪の中にスタンバイさせておきました、鳥たちの合唱です。お気に召しましたでしょうか」
 ホントかよ。ホントなら凄いけど。
 ラインの先に、ファーストを結びつけて釣りを再開する。
「この区間には、尺近いヤマメが何匹も生息しておりますが、1週間前には私自身が、3匹の隠れ場所を特定しております。石の裏から出てきたのを見つけた時点でルアーのアクションを止めており、ルアーには触らせておりませんのでご安心ください」
 ほう。それはいいですねえ。
「ご希望ならば、オプションで、そのヤマメが隠れているピンポイント情報もご提供させていただいております」
 なるほど。で、いくらですか?
「ひとポイントにつき、5000円となっております」
 それは楽だ。しかし、大名釣りとはいえ、何から何まで教えてもらうのはしゃくだ。それにそこまで教えてもらうのは、釣り自体の楽しみを半減させることでもある。魚の居場所を探すことも、魚釣りというクワイエットスポーツの一部分であるはずなのだ。だから僕は、そのサービスを断り、自分でヤマメを捜しながら釣りをすることにした。釣り師としてのプライドが、それを選択したのである。
 1時間過ぎて、まだ僕はノーフィッシュだった。チビヤマメのチェイスが、何回かあっただけだ。なかなか難しいですね。
「はい。最近はルアーを追いかける距離が短くなっております。なかなかルアーへ食いつかせるのは難しゅうございます。ちなみに、現時点で、私が確認しているグッドサイズのヤマメポイントは、2箇所通り過ぎました」
 げっ。ヤバイ。残りは1箇所ですか?
「それ以外にもいるかもしれませんが、私が確認しているのは、この上流にあと1箇所でございます」
 僕は、5000円のピンポイントサービスをすぐさま申し込んだ。釣り師のプライド? プライドなんてオレ知らん。僕は、プライドを丸めて川に捨てた。いやいや、川にゴミを捨ててはいけません。
 伊藤さんが教えてくれたそのポイントは、長さ1mほどの短いたまりだったが、大きな石に囲まれていて意外に水深があった。確かに大きなヤマメがいてもおかしくない。
 ファーストを上流の落ち込み付近にキャストし、右に左にアクションさせながら引いてくる。
 黒い影がミノーを追って、ロッドティップまであと1mというところで食いついた。背中が茶色くて、黄色がかっていて、赤みもある山のヤマメだった。
 記念撮影を済ませると、日がだいぶ傾いていた。僕らは車に戻り、帰路についた。
「帰りの音楽はいかがいたしましょう。通常なら、クラシック音楽か、ジャズやボサノバから選んでいただきますが、オプションで特別コースも用意しております」
 特別コースはどんな音楽ですか?
「今週のベストヒットですが、ただのベストヒットではございません」
 へえ、それは期待できますねえ。で?
「お客様の隣で、私が歌います。お安くしときますよ。1曲3000円でどうです?」
 僕はその特別コースを丁重に断り、助手席の皮のシートに深く沈みこんで、ボサノバを聞きながら目を閉じた。














「イトウガイドサービス妄想編①」 丹律章
2007年8月12~13日、岩手と秋田の川
写真と文=丹律章

タックルデータ
ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC510PUL
リール:ゼブコ/カーディナル3
ライン:サンライン/トラウティスト 4ポンド
ルアー:イトウクラフト/バルサ蝦夷50S



 盆休みを利用して伊藤秀輝さんと釣りをした。伊藤さんの実績河川を案内してもらいながら数匹のヤマメを釣った。そしてふと思った。こういうサービスに値段をつけたらいくらくらいするのだろう。ガイドフィッシング。一般的な値段は、ガイド1人に客が2名で3~4万円くらいだろうか。そんなことを言っていたら、伊藤さんが口を挟んだ。「うちはそんなに安くないぞ。料金は1日10万円から、だな(笑)」。こんなバカ話からこのストーリーは生まれた。釣果や写真は実際のものだが、もちろんストーリーはウソ。イトウガイドサービスは実在しないので念のため。

 岩手や秋田の渓流をメインフィールドにするイトウガイドサービスは、確実な釣果でも有名だが、その料金設定の高さでも有名だ。1日のガイド料金は10万円。この料金で2名までのガイドをしてくれる。しかしイトウガイドサービスの怖いのはここから先で、いろいろなオプションが設定されていて、いつの間にやら支払い料金は膨れ上がっていることが多いのだ。
 早朝4時。伊藤さんが車で迎えに来てくれる。
「お客様、本日はイトウガイドサービスのご利用ありがとうございます。ところで、本日はスタンダードコースでよろしいですか?」
 なに、スタンダードコースって? 聞いてないんですけど。
「当ガイドサービスでは、スタンダードコースのほかに、Aコース、Sコースというオプショネルコースを用意いたしております。スタンダードは本流や有名支流などで、もちろん魚はたくさんいますが最近のフィッシングプレッシャーで、大変釣りにくくなっております。Aになりますと、決してガイドブックには載ることのない支流で、もちろん魚影はスタンダードの比ではありません。Sコースになりますと、地元の釣り人にもあまり知られていない秘密の支流を回るもので、スタンダードやAコースよりさらに魚影は濃く、人も入らないためにヤマメの反応もとびきりです」
 なるほど。それで料金の方は?
「Aコースで1万円増し、Sコースで3万円増しとなっております」
 せっかくの遠征で釣れないのは困る。ちょっと迷ったがSコースを奮発し、伊藤さんの車に乗り込む。しばらくすると車は舗装路をはずれ、山の中へぐいぐい進んでいく。
 到着したのは、左右から張り出した藪に覆われそうな林道の途中。車を強引に止めるとアブが大量に寄ってきた。しまった。この暑さで、長袖シャツを家に忘れてきた。
「長袖シャツのレンタルもございますが」
 伊藤さんが、薄手のシャツを手に持っている。ラベルを盗み見るとそれはユニクロの製品。販売価格は3000円程度のはずだが、レンタルは1日1500円だという。ちょっと高いなと不平を言うと、いやならいいんですとシャツをしまいかけた。いやいやそういうわけにはいかない。アブより1500円だ。僕は袖を通した。
 踏み跡のない藪の中を、漕ぐようにして10分ほど歩き、川原にたどり着いた。先行者の気配のない、知る人ぞ知る渓流だ。淵にミノーを投げると、小さなヤマメがすぐに反応した。
 それにしてもアブがうるさい。長袖で腕は覆われているものの、手の甲や首、顔などは無防備にさらされている。
「ひと吹き1秒で50円になりますが」
 後ろで伊藤さんが言う。振り返ると、フマキラーを手に伊藤さんが微笑んでいた。その後は、アブが寄ってくるたびに伊藤さんにお願いして、シューとひと吹き。おかげで釣りに集中できる。悪くないサービスだが、やはり高すぎる感は否めない。  つづく







「イトウガイドサービス妄想編②」 丹律章
2007年8月12・13日、岩手と秋田の川
写真と文=丹律章

タックルデータ
ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC510PUL
リール:ゼブコ/カーディナル3
ライン:サンライン/トラウティスト 4ポンド
ルアー:イトウクラフト/バルサ蝦夷50S



 釣りを続けていると、困ったことに気がついた。暑さでナイロンラインがやわらかくなっているのも一因なのだろうか、ユニノットでルアーのラインを結ぶと、最後の締め付けのところでラインに変なテンションが掛かり、ルアーのラインアイから3センチほどがカールしてしまうのである。そのせいで、ルアーの腹フックが頻繁にラインを拾ってしまう。
「結びましょうか?」
 伊藤さんが後ろから言う。素直に結んでもらうと、ラインは見事に一直線で、トラブルもなさそうに見える。
「1回50円です」
 まあ、それくらなら安いもんだ。
 大きな堰堤に行き着いた。20分ほど粘るがコッパヤマメが1匹釣れただけに終わった。
「おかしいですね。もっといるはずなんですが。ちょっとやってみていいですか」
 伊藤さんがこの日初めて自分のロッドにルアーを結んだ。そして3キャスト目。いいサイズのヤマメがルアーを追った。
「やっぱりいましたね。このプールのヤマメはなぜかアユカラーのルアーによく反応するんです」
 僕のルアーワレットにアユカラーは見当たらない。
「販売用ルアーも揃えてございますが」
 欲しい欲しい。アユカラーください。
「現場売りは、定価の倍ですがよろしいですか?」
 定価の倍は高かったが、おかげで25センチほどのヤマメを釣り上げることができて、一応満足した。
 昼をずいぶん回ってから、食事タイムになった。Sコースの場合は、コンビニ弁当ではなくジンギスカンの食事が提供される。釣りの食事はおにぎりかパンかカップラーメンが定番の僕にとって、かなり満足できる食事だ。しかし、これにもオプションがあった。
「天然カジカの塩焼きと、利尻ウニの用意がございますが」
 恐る恐る聞いてみる。いくらなんでしょう。
「こちらは時価となっておりますが、本日の場合ですと、カジカは1匹500円、ウニは1パック5000円となります」
 もうこうなったらやけだ。全部食ってやる。ついでにビールも持ってこい!
 ビールをたらふく飲んだせいで、午後の釣りは早々に中断し、エアコンの効いた車内で昼寝タイムとなってしまった。昼寝中のエアコンは、28度設定で1時間300円。1度設定を下げるごとに、100円追加である。
 1日の釣りが終わり、ガイド料金を清算して家まで送ってもらう。総額いくらになったかはここには書きたくないが、一瞬立ちくらみしそうになったことを付け加えておく。立ちくらみの原因はこの夏一番の猛暑だけではないはずだ。
 ちなみに、イトウガイドサービスではクレジットカードは使えない。現金の持ち合わせがなかった場合は、イトウクラフトの工場で、しばらくこき使われることになるという噂なので、くれぐれも現金は多めに用意するように。  FIN






「真夏のスーパーヤマメ」 伊藤秀輝、丹律章
2006年8月8日、岩手県
写真と文=丹律章

タックルデータ
伊藤
ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC510ULX
リール:アブ/カーディナル3
ライン:バリバス/スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド
ルアー:イトウクラフト/蝦夷50FD,蝦夷50S,バルサ蝦夷50S


ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC510PUL
リール:アブ/カーディナル3
ライン:バリバス/スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド
ルアー:イトウクラフト/蝦夷50S,蝦夷50FD



 その日の盛岡市の最高気温は、摂氏35度を記録した。
 1週間前の最高気温が22度だったから、梅雨明けとともに突然夏がやってきて、僅か数日でピークを迎えたことになる。
 早朝、待ち合わせ場所で伊藤さんの登場を待っていると、朝だというのにじりじりという日差しが肩に食い込み、ぐんぐんと気温が上がるのが予感された。
 こんな予定ではなかったのだ。
 僕の住む神奈川は暑い。東京ほどではないにしても、やはり暑い。
 その猛暑を抜けだして、涼しい岩手で夏休みを過ごすつもりで、僕は帰省したのだ。
 しかし、盛岡に到着してみると、僕のふるさとは出発した神奈川と同じくらいの暑さで僕を迎えてくれた。なんてこった。
 盛岡にしては考えられないほどの寝苦しい夜を、実家の客間でいく晩か過ごしても、岩手の上空に居座った猛暑は一切移動するのを拒否したらしく、全く涼しくなる気配はない。そこで僕は、伊藤秀輝さんを誘って山の方に逃げ込むことにしたのだ。盛岡市内は30度でも、渓流の水に足をつければかなり涼しいに違いない。そう目論んだ。
 しかし、よりによって、僕らが釣りに選んだ日は、この夏最高の気温を記録する日となった。
 伊藤さんのヤマメ釣りは初夏に始まり、夏から初秋にかけて本番を迎える。
 だから夏の暑さの中でのヤマメ釣りというのは、いつもどおりのことだ。でも、35度ではちょっと。釣りするほうが参ってしまう。
「ここは大ヤマメの実績があるいいポイントだぞ。1投目から食ってくる可能性もあるから、気を抜かないでやって」
 そういって伊藤さんが譲ってくれた朝イチのポイントは、彼が想像していたより水量が落ち、流れが緩やかに、水深が浅くなっていた。
 10分で100mしたのポイントに移動。そちらも大差なくいつもの豪快な流れは失われていた。
 予想以上の渇水に、僕らはポイントの修正を迫られる。もうちょっと太くて強い流れのある場所、通常の水量なら強すぎる流れがあるところ。
 そして何箇所めかのポイント。川は緩やかに右にカーブして、厚い流れが橋脚を洗っていた。その周りのエグレ部分を、丁寧にミノーで探る。蝦夷は切れのいい泳ぎを見せ、その場所に潜むはずのヤマメに対して抜群のアピールをする。そう、僕の操作方法に水がなければ、という条件付きではあるけれど。
 残念ながらそのタイミングではヤマメが入っていなかったか、もしくは、僕の技術力が足りずに上空を通過するミノーを「フン」と鼻で笑ったのか、そのどちらかの理由でヤマメの反応はなかった。
 少し上流に左岸から柳が水面から水中に垂れ下がっていて、その横に緩流帯があった。アップストリームでミノーを弾き飛ばすと、2投目で僅かな抵抗があってヤマメがミノーに食いついたのが分かった。
 ネットを忘れてきた(なんという愚か!)ので、ランディングにはちょっと手間取ったが、尺には足りないヤマメが僕の手に落ちた。28センチといったところだった。
 尾びれに朱色をまとった、これぞヤマメっていう雰囲気の、ゴージャスさはないけれど素朴に可憐に美しい山のヤマメ。もちろんサイズにはもう一歩物足りなさが残るけれど、とりあえずは納得の一匹。ハリを外しながら魚を眺めていると、下流から伊藤さんが小走りで近寄ってきた。
「今年は水温が低すぎるんだ」
 7月、伊藤さんは電話でそんなことを言っていた。
 いつもなら、本流の水温が上がり、それを嫌ったスーパーヤマメたちが上流へ支流へと移動し始め、ある程度まとまった数が、ある範囲に集中する。
 しかし今年は冬の雪の多さを引きずってか、なかなか本流の水温が上がらず、だからヤマメが広く散らばったままの状態だったのだ。
「本流域まで適水温だから、ヤマメの居場所が絞れない」
 だから釣りにくい。逆に言えば魚は残っている。ヤマメが動き出すタイミングとその移動を追いかければ、釣れる。
 そして夏がやってきた。飛びきり暑い夏は、当然水温も上げる。
「そろそろまとまってきたんじゃないかな」
 その釣りはそういうタイミングの釣りでもあった。
 暑さは、僕らだけにやってくるわけではない。それはヤマメにも平等にやってきて、彼らの遡上を促す暑さにもなるのだ。
 長い瀬を駆け下りた流れが、白泡とともに深みへと吸収されていた。
 昼近くになって伊藤さんが案内してくれた場所は、なるほどの大場所。反応するかどうかはともかく、間違いなく魚はいると思わせるポイントだった。
 その深トロの押しの強い流れが落ち着くあたりの対岸に、一抱えほどある岩が水中にごろごろと点在しているポイントがあった。
 伊藤さんは例によって僕に場所を譲ってくれたので、僕は遠慮無しにその場所に入り、岩に潜むヤマメをイメージしてキャストを始める。
 伊藤さんは上流の落ち込みからの白泡混じりのポイントを攻め始めた。
 数分後、「よしっ」と言う声に僕が振り向くと、10メートルほど上流で伊藤さんのロッドがグニャリと曲がっていた。
 実は伊藤さんはその魚の前にでかいウグイとニゴイを掛けていた。
「だから最初は半信半疑だったんだよね。またウグイかあ? それにしてはしぶとく抵抗するなあ。ウグイならこの辺で抵抗をやめて、のそーっと寄ってくるんだけど、まだ暴れるぞって」
 そして5mほど先で水面を暴れたときに見えた魚の幅で、アメマスか? と思い、3mまで寄せて、ついにパーマークが見えた。
「ヤマメだよ、でかいぞ」
 季節柄アユを飽食しているのか、パンパンに太ったヤマメは40アップに見えた。ヤマメが落ち着くのを見計らってメジャーをあててみると40センチには僅かに足りない38センチ。夏の真昼のスーパーヤマメだ。
 地元なので川を熟知している。技術もある。経験も豊富だ。だからと言って、38センチというのはそう簡単に出るサイズではない。しかも8月、しかも真昼間。
 それをあっさりと出してしまう天性の何かが伊藤さんにはある。
「いつもはね、丹君がやってた岩がごろごろあるとこ、あそこからいいサイズが出るんだよ。でも、今日は丹君がやったでしょ。だからオレは上に入った。そしたらこれだもの」
 いつもどおりの場所にヤマメがいたならば、僕に釣れていたはず。釣りの神様、今日に限ってそれはないんじゃないの?
(狙いどころは良かったんだけれどねえ)
(昨日はそこにいたんだけど)
(運が悪かったねえ)
 そういうことか?
 僕の狙い方は決して間違っていたわけではなかったらしい。でも、ポイントの選び方が正しいという評価よりも、僕は正直その魚がほしい。間違った方法でも、偶然の交通事故でもいいから、何とか38センチを、ねえ、神様。 FIN






「雪解けのころ」 丹律章
2006年5月3日・4日、岩手県
写真と文=丹律章

タックルデータ
ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC510UL
リール:アブ/カーディナル3
ライン:バリバス/スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド
ルアー:イトウクラフト/蝦夷50S


 春の渓流は難しい。
 水温が低く魚のやる気がまだまだ低い。
 雪シロがガンガン出て、川が増水するので歩くにも体力がいる。
 もっとも、夏の渓流は水温が高すぎて釣りにくいし、秋の渓流はトラウトが産卵を意識するので釣りにくい。
 概ね、いつの時期でも魚は釣りにくいもので、例外があるとしたら、水温が安定してアユなんぞを追いかけている初夏のいっときくらいだろうか。
 だから、難しいのは春だけではないのだけれど、それを承知した上でこう書き始めさせていただく。
 春の渓流は難しい。

 神奈川に住んでいる僕が、岩手で釣りをするのにはいろいろな条件が必要となる。共働きで、子供が小さいとなおさらだ。
 プライベートで、1週間家を空けるなんてまず不可能。2日くらいなら何とかなるかもしれないけれど、2日の日程で岩手を往復する気力も体力も僕にはない。
 釣り雑誌のライターという仕事の性格上、仕事を絡めればこれも可能な気配が漂うが、そういうときに限って都合のいい仕事は舞い込んでこない。
 そういう困難さが伴う釣りであるが、ゴールデンウィークとお盆の時期には家族で帰省するのが恒例なので、子供をジジババに預けて釣りに行くことが可能となる。
 そこで今年のゴールデンウィークも釣りに行くことにした。
 まず、伊藤秀輝さんに電話をする。
 僕の実家が盛岡にあるのはこういうときに非常に便利だ。
「あのですね、4月の末に帰省しますから5月の始めころに釣りに行きましょうよ」
 釣りに行きましょうよとは、釣り場を案内してくださいという意味でもある。仕事を拡張してしまって、ますます多忙な伊藤さんに釣りの案内を頼むとは、僕もなかなか図々しいものである。
 伊藤さんと釣りに行くのはいいが、1泊2日くらいでの釣りとなると、夜の宴会が2人というのはちと寂しい。そこで福島の吉川勝利さんに電話する。
「あのさ。5月の始めに伊藤さんと釣りするんだけど、岩手に来ない?」
 彼の住む福島の浜通りから岩手の盛岡までは結構な距離があるのだが、長距離ドライブで疲れるのは僕ではない。

 5月3日。
 前日から集合してしまって、しこたま酒を飲んでしまった僕らは、7時ごろにのそのそと起き出し釣りの準備をする。前夜のジンギスカンで体力は充実しているはずだが、それを打ち消すほどのアルコ-ルの摂取が頭を重くしている。
 まず向かったのは雫石川の支流である。
 多少濁っているが、増水はそれほどではない。支流の中流にある、堰堤と堰堤の間を釣ることにした。林道から堰堤上のプールに降りて、まずはプールを探る。
 冬の間、こういう深場で過ごしたヤマメやイワナは、春になって雪が解けて、川の水温が上がると流れに入り始める。どのへんに魚がいるかを考えながら、最下流から探っていく。3人でルアーを投げまくるが、小さなイワナがミノーをチェイスしただけ。あきらめて上流を目指す。
 倒木が水中に複雑に入り組んだインレットのエリアでは魚は反応せず、上流へ歩くとちょっとした深みがあった。瀬から続く長めの深瀬だ。この河川規模では大場所に属する。
「そこやってみて」と伊藤さんはポイントを僕に譲って、さらにひとつ上のポイントへ向かった。
 15mほど先の白泡の中へバックハンドでルアーを飛ばす……はずだったが、上から垂れ下がる木の枝にびびって、ルアーは1mほど右にそれた。
 それでもトゥイッチングすると、20センチ弱のヤマメがミノーにじゃれ付いてフッキングした。
「いるじゃないか」
 上流から見ていた伊藤さんが、「小さい?」と身振りで聞いてくる。右手の親指と中指を広げてそれに答える。
 リリースして2投目。今度は上手く狙った場所に入った。トゥイッチングを始めて、1mほどリトリーブしたとき、水面がきらっと白く光り、僕は慌ててロッドをあおる。さっきとは違う重い手ごたえだ。
 普通ヤマメは、秋に産卵したら死んでしまう。だからこの時期にはせいぜい25止まり。それが僕の経験値だった。だからでかいと分かったとき、一瞬イワナだと思った。でも違うんだな、どこか。
 足元に寄せた魚はヤマメで、尺近くあった。
 僕が大騒ぎしているのを見て、伊藤さんと吉川さんが戻ってくる。ネットに入れてメジャーを当てると31センチ。産卵を経験し冬を越したメスだ。
 放流のヤマメは産卵するとほぼ100%死んでしまうが、ネイティブ、つまり本ヤマメは死なない。全部死なないのか、死なない個体もいるのかは知らないが、こういう冬を越す個体がいるのは確かだ。
 これが本ヤマメかどうか……少なくとも100%放流魚の血ではない。ネイティブの血が混じっていることは確か、というのが伊藤さんの見立てだ。
 それは本当にきれいで、腹はへこんでいたものの体色などは盛期のそれだった。
 伊藤さんと吉川さんが気をつけの姿勢で、声をそろえて「さすがですねえ」という。戻ってくる間に打ち合わせをしたのは間違いない。
 だが、渓流のエキスパート2名に「さすがですねえ」といわれたら、答えないわけにはいかない。
「そうでしょ。ヤマメの釣り方教えましょうか?」 FIN








「トラヤマメのいる渓」 丹律章
2005年9月x日、秋田県

タックルデータ
ロッド:イトウクラフト/エキスパートカスタムEXC560PUL
リール:アブ/カーディナル3
ライン:バリバス/スーパートラウトアドバンスVEP 5ポンド
ルアー:イトウクラフト/蝦夷50S(旧型)



 その渓は秋田県の奥の奥、車をブンッと飛ばして、さらに砂利を蹴散らしながら林道をしばらく走り、車止めから歩き、堰堤を越えたところにある。
 まだ9月だというのに気温は信じられないほど低く、途中の電光掲示板には摂氏4度という表示があった。「ウソだろう、間違いじゃないの?」と思いながら車を降りると、空気はやはり冷たく、僕はフリースを持ってこなかったことを深く後悔した。
 朝はまだ山の向こうにあって、渓の底まで太陽の光は届いてこない。
 6時。釣り開始。冷たい水を蹴飛ばしながら、時折良さげな深みにルアーを放り投げつつ上流へ急ぐ。
 しばらく歩き、堰堤に行き当たる。
 堰堤下のプールを10投ほど探り、やはり何の魚信もないことにちょっとがっかりしながら、その堰堤を高巻く。さあ、ここからが本番だ。
 堰堤を越すと完璧な渓流になる。山に降った雨が集まって小さな流れになり、小さな流れが合わさって川になり、山を削りながら流れている。山を削りながら下へ下へと流れる作業を何百年、何千年と続け、その結果この渓ができた。それが実感できる。
 川底には大小さまざまな大きさの石が転がっている。両岸は切り立っていて、コケの張り付いた岩肌だったり、ところどころ草の生えた土の斜面だったりする。
 渓の底を流れる渓流は、限られた幅の間で右に左に蛇行し、時には小さな落ち込みを作り、岩盤の瀬を透明な水が滑り落ちている。
 その水の中にヤマメは生きている。
 この渓にヤマメが生息しているということは必然であるのかとふと考える。
「水温が比較的低い東北地方の山の中を流れる渓流」という見方をすると、ヤマメはいて当然の生物だが、雨が集まってできた川が長い時間をかけて山を削ったその結果としての渓と考えるとどうも分からなくなってくる。この土地が温帯の北の方に位置していることとか、日本が雨の多い場所であることとか、そもそも地球に生命体が生まれたことなど、それらすべての必然性を考えてしまうと、ますます混乱してくる。もしかすると、偶然が重なった末の奇跡なのだろうか。
 そういうことを考えることも大切かもしれないし、それすら釣りの一部なのかもしれないけれど、考えれば考えるほど分からなくなってくるし、答えを出せるほど頭もよくないので、そのへんは曖昧にしたまま釣りに集中する。
 ルアーを深みに放り投げる。放り投げると書くと簡単に聞こえるが、それはそれで結構難しい作業だ。
 開けた本流ならばオーバーキャストで普通に投げられるけれど、ここのような渓流ではそうはいかない。本流のつもりで投げたら、すぐにどこかの枝にルアーが絡まってしまう。
 ヤマメがいそうなポイントの上には、必ずといっていいほど木の枝が張り出している。オーバーハンドでフライ気味のキャストをすると、必ずその枝にルアーは飛び込む。だからキャストは、サイドハンドで、弾道は低く、ライナーで遠くまで飛ばすために強く。簡単ではない。
 オーバハングにルアーを引っ掛けたり、オーバーハングはクリアしたけれどあと2m先へ入れられなかったり、たまに思い通りのキャストができたりしながら、目の前に現れるポイントを次から次へ探っていく。1発でベストのポイントに着水させなければ、ヤマメは出てこない。それができたとしてもルアーに食いつくとは限らない。
 尺ヤマメをアワセ切れで逃したぐらいで、なかなかいい魚が釣れなかったが、久々にライナーのロングキャストが決まったとき、バイトをとることができた。
 トラヤマメ。
 伊藤さんならそう表現する、その一歩手前の個体が出た。
 パーマークが縦に伸び始めていて、まるでトラの縞模様のように見える。
 以前「トラウティスト」という雑誌を作っていたとき、「本ヤマメへの旅」というコーナーで追った魚のひとつが、このトラヤマメだった。自分が任せられていたのは1号から6号までで、その間にトラヤマメは取材中に釣れなかった。もちろんトラヤマメの特徴を持ったヤマメは極少ないので釣れなくて当然なのだが、その珍しいトラヤマメに近いヤマメが、この日僕のルアーにヒットしたのだ。
 このヤマメがネイティブだとか天然だとか、本ヤマメだとかいうつもりはない。でも、こういうヤマメが釣れることは、ただ単純にうれしい。まあ、普通のヤマメでもうれしいけれど。
 先行者はいないようで、ポツリポツリとヤマメが釣れた。たまにイワナも混じった。いつもよりやや多めの水が遡行を困難にしていたけれど、そんなことは気にならなかった。むしろヤマメの活性を上げてくれているようだ。僕は緑の山を見て、緑の空気を吸って、ヤマメを釣った。
 見上げると渓は狭く、木々の合間から細く青空が見えた。 FIN




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